聖 書:マタイによる福音書 第7章1~5節
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイによる福音書の5章から7章は「山上の説教」と言われ、イエス様は山に登り人々に語られました。お話は身近なものを題材にされたので親しみやすく理解しやすいものでした。大勢の人々は時を忘れたように話に引き込まれて聞き入りました。またお話は興味深いだけでなく「その言葉に権威があったので、」(ルカ4:32)、それまで聞かされてきた祭司や宗教学者たちの話とは格段に違って「彼らはその教に驚いた」ものでした。

Ⅰ.人をさばかない
 イエス様は「 人をさばくな。」(7)といわれました。そもそも人は同じことばでもそれぞれが受けかたや意見が違います。頭ではそうとわかっていても、つい自分の尺度で測ってはお互いの違いを受け入れられなくて、相手を非難する気持ちが出てきます。「さばく」とは、人のあら捜しをすることです。7節は「自分がさばかれないためである。」と続きます。誰からさばかれるかは書いてありません。聖書は神様がさばかれるとあります。「わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。」(ローマ14:10)、「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、」(ヘブル9:27)、神様のさばきの方法は「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(2)です。もしあなたの他人に対する評価が厳しければ神様も同様にあなたに厳しく、あなたが他人に鷹揚であるなら、神様もあなたを穏やかに受け入れてくだいます。
わたしたち人間はいつか必ず、神のさばきの座に立ちます。いつか訪れるその日のために、日々他の人をさばかずイエス様のようにあわれみ深い者になりましょう。そうするならば、自らのさばきの座で神様はあわれんでくださいます(マタイ5:7)。

Ⅱ.ちりと梁(はり)のたとえ
 イエス様はたとえ話の名手です。3~5節は「ちりと梁」のたとえ話です。ちりとあるのは、原語の意味は細かな木片のことで「おが屑」(新共同訳)を表わします。梁とは屋根と建物の柱を支えるために、柱上に渡される横木です。「丸太」(新共同訳)と訳されています。「ちりと梁」、二つの大きさが極端に違うものを誇張して比較することで、他の人をさばくことがいかに愚かで滑稽なことかを、ユーモアを交えて伝えています。たとえは宣教を開始される前のイエス様の職業大工を思い起こします(マルコ6:3)。
自分の目に余る丸太のような大きい欠点を棚に上げて、他の人のおが屑みたいな細かい欠点でさえ目を皿のようにして見つけては、あげつらいさばくようすが目に浮かびます。他の人をさばくことは罪です。(ローマ2:1)イエス様は「まず自分の目から梁を取りのけるがよい。」(5)と自分の中にある罪(梁)を認めて、それを取り除きなさいと言われました。

Ⅲ.ゆるされたから、もうさばかない
 わたしたちには自分の心が罪で汚れていることがわかっても、それを自分で取り除くことはできません。わたしたちはまさに目の前を梁で覆われた霊的な盲目の状態です(ヨハネ9:41)。わたしたちの梁(罪)を取り除いてくださるのは、主イエス様の十字架の贖いによる外はないのです。人間は主イエスによって自分の罪が赦されて、霊的な盲目状態から解放されると、もっとはっきり自分に内在する罪が見えてきます。しかし主イエスはわたしたちの罪を赦されて義と認めただけでなく、さらにきよめてくださいます。神様のさばきの座を恐れることなく地上で過ごすことができます。人は神様から大きな罪が無償で赦されたからこそ、神様のみ前でもう誰もさばかないし、他人をさばけない、さばいてはいけないのです。

教会の兄弟姉妹は赦されたお互いを喜び合い、自分の足りないところは謙遜に学び、さばく心でなく「愛をもって」訓戒しましょう。