聖 書:ヨハネによる福音書1章24~34節
1:24 人たちは、パリサイ人であった。
1:25 彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
1:26 ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
1:27 それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
1:28 これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
本年の教会標語は「神の愛に成長する-霊的成長」である。4月から教団聖句、教会聖句、霊的成長の序論を語ってきた。次に、じっくりとヨハネによる福音書を開いていく。先の3つの福音書に比べて、ヨハネによる福音書は霊的な示唆に富んでおり、ヨハネ独自の霊的な言及が多い。3章ではニコデモに霊から生まれると言われた。4章でサマリヤの女性に霊とまことによる礼拝を語られた。14章からの惜別の説教は聖霊そのものを伝えられた。20章で復活のイエス様は聖霊を受けよと命じられた。今朝はヨルダン川の荒野で洗礼を授けていたヨハネの元にイエス様が来られた公生涯の始まりから見ていく。
Ⅰ.水による業
ヨハネは水でバプテスマを授けていると答えている(26節)。 水は命と生活とから切り離せない。水が少ないパレスチナではさらに貴重である。水による きよめは旧約聖書の初期から出てくる。スリヤのナアマンの癒しも思い起こす(列王下5章)。ヨハネは風貌もメッセージも旧約聖書の伝統にある。ヨハネが語った悔い改めは、誰もが神様の前に最初に持つべきものである。悔い改めだけで終わるなら半面に過ぎない。悔い改めは大切だが、積極的な歩みへの力にはならない。悔い改めに続く福音こそが新約聖書の救いそのものである(マルコ1:15)。水によるバプテスマを越えたものとして、ヨハネはイエス様の御霊によるバプテスマ(33節)を示した。
Ⅱ.聖霊による業
水は表面をきよめることはできるが、中味・本質まで届くことはできない。聖霊は神様そのものであり、この世の力・働きを越えていく。聖霊は心・魂に届いて、変えることのできる力がある。ローマ6:3以下にはキリストのバプテスマが、罪に死に、キリストの命に生きることが記されている。バプテスマの原語が水に浸すという意味があり、水に浸かる洗礼を重視する教派がある。水に浸かることは死を意味し、新しいキリストの命に生きることを大切にしている。ローマ人への手紙は人間の内実の人間論・罪悪論に始まって、信仰によって義とされる義認論、この6章からは積極的なきよさに生きる聖化論である。聖霊によって神様の御心を満たす生き方へと私たちは変えられる。
Ⅲ.世の罪を取り去る業
ヨハネはイエス様を、世の罪を取り除く神の小羊(29節)と呼んだ。聖書を通して犠牲の小羊は多く出てくる。過越しの小羊(出エジプト12章)がまず挙げられる。小羊は常燔祭や安息日、月の第1日(民数28:3,9,11)など重要なささげものであった。毎日、毎週、毎年ささげ続けられねばならなかった。イエス様がささげられる神の小羊であるとは、十字架の死を意味している(へブル9:11~15)。動物の命でも、人の命でもない、神の独り子イエス様の命がどれほど尊い価値あるものか、この世のものでは測れない。
私たちは水によるバプテスマではなく、聖霊によるバプテスマが授けられる。これは、神の子イエス様の十字架によって成し遂げられている。このめぐみに満たされて歩もう(ヨハネ1:16)。