聖 書:ヨハネによる福音書15章9~12節、13章35節
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

1945年、72年前の本日8月6日は日本人だけでなく世界中の平和を願う人々にとって忘れがたい日です。広島に原子爆弾が投下されその年末までに十四万人が亡くなりました。三日後の9日には長崎に原子爆弾落とされ七万四千人が一瞬にして命を奪われました。憎しみ合いの末路はあまりに悲惨で取り返しのつかない犠牲を生みました。戦争の爪痕は時代が変わり国は復興しても、心が受けたきずや痛手は癒されることはありません。愛と対極にある憎しみと怒りからは良いものを何も生み出せません。船橋の教会ビジョンは「イエス・キリストの十字架の愛を知り、聖霊の助けによって互いに愛し合う」です。神の愛の徴である十字架は、ゆるしと自分を与え尽くす愛の現われです。

1.与える愛に生きる
イエス様はこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」ではイエス様は人間をどのように愛されたでしょうか?一言で言えばその愛はご自分を与える愛です。イエス様は、嫌われ者のザアカイの友となり、身持ちが悪いと陰口を叩かれたサマリヤの女に話しかけ、墓場に住む悪霊に憑りつかれた男を解放して、重い皮膚病を患い除け者にされた男に触れて癒し、盲人や幾年も病気に苦しむ人々を助けました。家族はもとより社会からも見捨てられて、苦しみと悲しみの谷に突き落とされたかのような人たちに救いの手を伸べて、讃美歌121のように「友なき者の友となって」くださいました。ルカはパウロがエペソの長老への別れのあいさつで『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を紹介しています(使徒行伝20:35)。ではどうしたら与える愛に生きられるのでしょうか。マザー・テレサは「そのとき目の前にいるひとがわたしにとってのすべてです。」と言いました。目の前にいる人を満面の笑みで迎え、相手の言葉を一言残らず聞き取ろうと耳を傾けてみましょう。

2.愛することはゆるすこと
 イエス・キリストの十字架の愛はゆるす愛です。十字架にあげられたイエス様の最初のおことばは「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)でした。イエス様は自分に対してひどい仕打ちをして、心無いことばを言い放った人々をひたすらかばい、開口一番神様に執り成しておられます。一枚のコインにように、神の愛はゆるしと表裏一体です。
神様は人を愛するがゆえに、人がおかした罪を赦して救いを与えようと、人の子イエスとして生まれ、わたしたちの人類歴史のただ中に突入されました。イエス様は十字架で「自分の命を捨てる」(13)まで人間を愛され、過去現在未来すべての人の罪を贖われました。このように人は神様から赦されて神様と和解をしました。ゆえに人間同士も互いに和解してゆるしあい互いに愛し合うことを可能にしたのです(Ⅱコリント5:18~20)。

3.キリストの弟子になるために
 今日の聖書箇所はイエス様が十字架にかかられる前に最後の晩餐で弟子たちに言い残したいましめが「互いに愛し合いなさい。」でした。弟子たちは絶えず誰が弟子たちの中で一番偉いかを争っていました。そんな弟子たちを前にしてイエス様は「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:35)と言われました。聖書が「神は愛である。」(Ⅰヨハネ4:8)と言いながら、教会がもし愛が冷めた状態なら、外の人に証しになりません。しかしキリストを信じる者同士が信仰の絆で結ばれ互い愛し合うなら、神様の愛が彼らの心に息づいていることを誰もが認めざるを得ません。イエス様は愛に満ちた三十三年のご生涯、愛の貫き十字架上で死んで復活した救い主です。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」(Ⅱコリント5:14)