聖 書:ペテロの第一の手紙 第2章1~10節
2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
2:3 あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
2:4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。

Ⅰペテロの手紙を読み進めていくと、1章の最後は、神のことばによって生まれた者として愛し合う勧めで終わっている。2章に入ると、さらにみことばに親しむこと、いけにえをささげること、そして「神の民」として生きることが語られていく。

1.みことばを慕い求める(1-3)
「神の変わることのない生ける御言」(1:23)によって、キリスト者は生まれた。ここではさらに、「混じり気のない霊の乳」であるみことばを慕い求めることがすすめられている。みことばに親しみ、心に留め、指針として日々を生きる大切さを思う。私たちの心は騒ぎやすく、悪しき考え(悪意、偽り、偽善、そねみ、悪口)にふりまわされやすいものであるが、それらを捨てて、みことばに親しむようにと勧められる。みことばが私たちの中心に来るように、常に意識して取り組まねばならない。さもないと容易に流されてしまう。「主が恵み深い方であることを、すでに味わい知った」(3)とあるが、その恵みを絶えず思い起こさせてくれるのも、みことばである、この手紙を記したペテロ自身も、熱心に主に従い、決してイエスを裏切らないと誓いながら、その弱さの故に裏切ってしまった。しかし赦されてイエスに使命を与えられて、使徒として偉大な働きをした。イエスの恵み深さを心の底から知っているペテロが、この勧めをしていることを心に留めたい。

2.霊の家に築き上げられる(4-8)
「生ける石となって、霊に家に築き上げられ」とあるのは、教会に連なり、成長していくことを指している。「霊のいけにえをささげる」とは、どのようなことか。ダビデが記した詩篇のことばに、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51:17)とあるように、自分自身の欲望に従うのでなく、罪深さを認め、へりくだって神が導き用いてくださることに信頼をしていくことである。6節の言葉は、イザヤ28:16からの引用である。ここでは、イエス・キリストの救いの確かさが語られる。イエスは私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえって救いの道を開いてくださった。信じない者にはつまずきの石であるが、信じる者にとって堅固な、隅のかしら石(礎石)である。みことばそのものが、キリストをあかしするものである(ヨハネ5:39)。このキリストに信頼して、用いていただいて、私たちは築き上げられていくのである。

3.神の民(9-10)
旧約聖書の時代から、イスラエルは神の民として選ばれている。何度も神に背き、こらしめを受け、苦難の道を歩みながらも、その選びは変わらない。私たちは始め、神の民ではなかった。しかし神の一方的なあわれみよって選ばれて、神の民としていただいた。暗闇から光に移され、神の前にはっきりとした身分が与えられているのである。神を知らず、神に背いていた罪びとがこのように変えられるのは、本当に驚くべきことである。神の民としてこのみわざを伝えていくことこそ、私たちが選ばれた目的であると語られる。良い行いはもちろん尊いことだが、それだけでなく、神の民であるという事実に立ち、いかなる状況でも主を見上げ、希望を持って生き続ける姿そのものが、神のみわざを伝えることにつながるであろう。

みことばをつねに慕い求め、へりくだって神に用いていただくこと求めつつ、神の素晴らしいみわざを伝えていく者とされていきたい。