聖 書:ヨハネによる福音書 第8章31~39節
8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
8:33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
8:35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。
8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。
8:38 わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」。
8:39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。

ヨハネ福音書の特徴は、一つのできごとが起こって、その話で終わるのではなく、その後の説明が続いていく。一つの話は展開し、深められていく。

Ⅰ.8章の話の流れ
8章は3ページ半に及ぶ長い章になるが3つに区分される。
1)1~11節「罪と罰」:姦淫の女が捕えられてイエス様の前に引き出される。イエス様は訴えた者たち全てをご存知で、彼らに罪を自覚させられ、女性の罪を赦された。
2)12~30節「光と闇」:前段の心の闇からイエス様は命の光を示された(12節)。ユダヤ人たちは自分の考えに捉われてイエス様を受け止められなかった。
3)31~59節「自由と束縛」:イエス様と共にあるならば自由がある。アブラハムの子孫という誇りがユダヤ人たちを束縛していた。

Ⅱ.イエス様にとどまる
31節でイエス様は改めてユダヤ人たちに言われた。私の言葉にとどまるならば、弟子となり、次に真理を知るものとなり、自由が与えられるという。最初に、イエス様は「とどまれ」と言われた。「とどまる」という言葉はヨハネ福音書に40回出てくる重要語である一番多いのは15章のぶどうの木のたとえの箇所で、11回出てくる。「つながる」、「いる」、「おる」と訳されている。「とどまる」とは、ぶどうの木と枝がつながるように、イエス様と命のつながりを持つことである。イエス様にとどまり、つながることによって弟子とされる。弟子は師と一緒に暮らし、人格的な交わりによって教えられていく。イエス様から真理を学び取っていくことである。真実は人に確信という平安を与え、真実はその人を動かす力となっていく。Cf.弟子たちがペンテコステ以降、命がけで福音を伝えていったのは、聖霊によって真理が開かれ、真実があることを確信したからである。…イエス様に捕えられるなら、この世の価値基準からは自由にされる。

Ⅲ.神様を父とする
イエス様の話を聞いたユダヤ人たちは、自分たちは自由の民で、奴隷とは違うと言った。アブラハムが父であると胸を張った。偉大な信仰者アブラハムを誇って良いだろうが、彼でさえ失敗もし、罪も犯す人間である。アブラハムを誇りとし、地上のことに捉われ続けるなら、そこから解放されない。私たちは十字架の救いによって神の子とされ、神様を父と呼べるからこそ、この地上のことがらから自由にされる。私たちを滅びへと向かわせる罪と死から解き放たれることができる。罪からの解放は、私たちの生きる力となる。死からの解放は、永遠への力となっていく。私たちは神様によって与えられた自由を、感謝をもって神様のために用いていく者である。Cf.小山恒雄師は授業で、出エジプト21:5・6にある自由とされた奴隷が主人に報いて留まる話をよくされた。…私たちは神様の愛、恵みにどれほど応えているだろうか。

イエス様とつながること、とどまることによって、真理が開かれ、自由にされる。神様とつながることによって現在から未来へと力が与えられる。この愛に報いて生きよう。