聖 書:ヨハネによる福音書 第1章1~18節
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
1:6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
1:7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
1:8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
1:15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
1:16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
1:18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

クリスマス、おめでとうございます。今日はヨハネによる福音書が開かれました。ところで皆さん、最初に日本語に翻訳された聖書がこのヨハネによる福音書とヨハネの手紙でした。今から180年前の1837年にギュツラフというドイツの宣教師の働きによるものです。ギュツラフはマカオで紀州の船乗りだった岩松、久吉、音吉の三人の若者に出会います。三人は舟が遭難して困難な体験を経て日本に帰国しようとましたが、鎖国に阻まれてマカオで足止めされていたのです。ギュツラフは三人から日本語を学んで最初の日本語聖書翻訳を試みました。この物語はクリスチャン作家の三浦綾子さんが「海嶺」という本を書かれました。とても興味深い小説ですからご一読ください。

1.イエスは世の光として来られた
 ギュツラフはヨハネによる福音書1章1節を、「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」と訳します。ギュツラフは神の「言」(ギロゴス)を「カシコイモノ」と訳しました。それは世界のすべては神の作品であり、神は造られた世界を秩序正しくいとなみを支えておられるお方ですから、宇宙一賢いものに違いありません。1節の「初めに」は創世記1章1節「はじめに神は天と地とを創造された。」を彷彿させます。世界の創造に先立って「言」が存在しておりそれは「命がある」ひとりの人格、神でした(4)。 「言」(ギロゴス)とはイエス・キリストであり神と共に永遠に存在しています。永遠に存在するロゴス(イエス・キリスト)でありながら14節では肉体をとられた人となって、私たちの歴史の中に赤ん坊としてお生まれになられました。神の奇蹟のみわざを記念として年毎にお祝いするのがクリスマスです。最古のギュツラフ聖書から一転して、最新の翻訳となる新改訳2017から中心聖句の14節を掲載しました。口語訳で「宿った」(14)とあると、一時的に仮の宿を取ったようにも取れますが、この言葉は天幕を張ってそこに住んだという意味で、「私たちの間に住まわれた。」という訳がより近いです。イエス・キリストは私たちの隣人となり仲間になって、悩みと苦しみと悲しみを共有して味わってくださったのです。人生には暗やみの中をひとりで歩くような心細くて寂しいときや、苦しいとき辛いときが寄せては返す波のように何度かあります。しかし「世の光」(9)として来られたイエス・キリストだけは、昨日も今日も変わることなく、私たちのそばにおられ一緒に生きてくださるのです(ヘブ13:8)。私たちをどこまでも愛してかかわり続けてくださるのです。
*「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネによる福音書1:14/新改訳2017)

2.恵みとまことに満ちた栄光
 14節は「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」とあり、ヨハネは受肉されたイエスは神の子であることを記しています。イエスは人としてお生まれになられましたが、夫となるヨセフとの子ではなく、婚約中の母マリヤにみ使いから告げられたように聖霊によるものでした。それは罪咎汚れの全くない神のひとり子が十字架にかかりすべての人の罪を贖うためでした。「御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。」(ロマ8:3)とあります。福音書が語る「イエスの栄光」とは世にいう栄華や富と権力とは無縁でした。家畜小屋の飼い葉おけで産まれて、貧しい大工の子どもとして育ち、家も財力もない中でひたすら旅を続け神の国の福音を告げ知らせます。最後はねたみから捕らえられ、あざけられ鞭打たれて十字架につけられ非業の死を遂げます。人間的に見るならおよそ栄光とは程遠い地上の人生でした。しかしイエスと出会った人々への慈しみと愛、敵対する者さえも愛し赦す姿、十字架と復活によって成し遂げられた救いのみわざ、それらすべてが神のひとり子イエスが顕された栄光なのです。有史から未来にもどんな偉大な人物でも成し得ない栄光であり「恵みとまことに満ちて」(14)いるのです。