聖 書:ヨハネによる福音書 第13章3~7節
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。

今年のイースター(復活祭)は4月1日です。それに先立ってレントが始まります。レントはイースター前日から遡って46日間の日曜日を抜いた40日間をさします。今年のレントは2月14日(水)「灰の水曜日」から3月31日(土)です。レントは四旬節また受難節といわれ、キリストの受難と復活を記念します。十字架と主の御思いを黙想して、悔い改め、節制し、清貧に過ごしましょう。

弟子の足を洗う主イエス
 イスラエルでは食事の前に足をきよめる習慣がありました。この仕事は家の下僕など主人に仕える者が客人の足を洗いました。弟子たちは誰が一番偉いかをいつも競い合っていましたから、率先して人の足を洗おうとする弟子はいません。ところが主イエスは腰に手ぬぐいを巻き、弟子の汚れた足をためらうことなく洗い始めます。集まった弟子たちはあっけに取られて身を任せつつも気まずい沈黙が流れます。ペテロの順番が回ってきました。すかさず彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と怪訝そうに尋ねます。主イエスの答えが本日の中心聖句の7節です。「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」(7)

主イエスは「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知」っていました。(1)それまでも主イエスは弟子たちに受難の予告は何度も話してきましたが、ペテロをはじめ弟子たちはだれも、これから起こることは全く予測できませんでした。別れのときが近づき、やがてご自分を見捨てて逃げ去る弟子たちと知りながら、主イエスは彼らを「最後まで愛し通された。」(1)のです。

隠された神のご計画
 人生は予想できない出来事に満ちています。良いサプライズもあれば、悪いアクシデントもあります。それらをわたしたちはあらかじめ選ぶことはできません。多くの人が、起こった出来事の良し悪しで、都合の良い場合は「運が良かった。ラッキー」と喜び、災いがやってくると「ついてなかった」とうなだれてしまいます。本当にそうなのでしょうか。7節は文語訳聖書ではわが爲すことを汝いまは知らず 、後に悟るべし」です。これによれば事の良し悪しに関わらず、わたしたちは神様が与えられた出来事をなぜと疑わずそのまま受け入れる心の備えが必要です。神様は「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。と言われたからです。当座は喜べない出来事のなかにも、神様の測り知れない恵みとあなたに対する深いご計画が必ず隠されています。それはずっと後にならないと、その苦難の意味は明かされないかもしれません。確かなことは「神様のなさることに間違い」はないという信頼に裏打ちされた平安です。

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。…」(申 29:29)とあるように、わたしたちは見えるところではなく、信仰によって歩むべきです。地上の最後の時までもわたしたちを愛し抜いてくださった神様が、わたしたちを貶めるはずがありません。ですからわたしたち起きた出来事で即座に良し悪しを判断してしまうと、神様のあなたに向けた素晴らしいご計画を見損ないます。

教会の新しい年度が始まります。新たな取り組みがすぐには結果として現れないときでも、一喜一憂せずに神様にお任せして前進しましょう。神様は「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)と約束なさいました。