聖 書:コリント人への第一の手紙 第10章13節
10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

徳川家康は「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」と言いました。いつの世にあっても苦労や悩みはつきものですね。

 Ⅰ.試練はこの世の常です。
 昔も今も、私も他人も、日本も世界も、金持も貧乏人も、有識者も無学者も、天才も凡人も、美人も不美人も、その他あらゆる格差を超えて、天災、人災を含めてすべての試練は、すべての人が経験するものです。それにもかかわらず、多くの人々は、常に他人事のように考えています。その結果、何らかの試練に遭遇するとき「まさか」と叫び、その対応にうろたえてしまうのです。私たちはこの「ま坂」という想定外の坂に差し掛かった時の対応策をしっかりと身につけておく必要があります。昔から「備えあれば憂いなし」と言われています。私の子供の頃には、「マッチ一本火事のもと、枕蹴っても炬燵を蹴るな」というキャッチコピーがありました。

Ⅱ.耐えられないような試錬に会わせることはない
 試練にはいくつかの要因があります。第一は神からの試練です。聖書は「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をむちうたれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい」(ヘブル12:6)と教えています。第二は悪魔(サタン)からの誘惑です。神が最初に創造されたアダムとエバはエデンの園において悪魔からの誘惑を受けました。神はエデンの園に、命の木と善悪を知る木とを生えさせられました。そして「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2:17)と言われました。そこへ悪魔がきて「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」(同3:4)と誘惑してきたのです。彼らは誘惑に負けて木の実を食べ、エデンの園から追放されたのです。イエス様も悪魔に誘惑されました。(マタイ4:1~11)。イエス様は見事に悪魔の誘惑に勝利されました。第三は自分からの誘惑です。「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1:14)と教えています。神様は私たちを愛し、訓練する目的で、私たちに試練を与えられます。その場合、耐えられない試練は一つもないことをしっかりと自分に言い聞かせることが大切です。

Ⅲ.のがれる道も備えて下さる
 旧約聖書ヨブ記にヨブという人の話が記されています。この人は「義人ヨブ」とか「苦難の人ヨブ」などと呼ばれています。彼は「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(同1:1)のです。彼はある日突然に大きな試練に遭い、すべての財産と10人の子供たちも奪われてしまいました。しかし、彼は神を呪うことがないばかりか、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と賛美しました。詩篇の記者は「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇46:1)と歌っています。

「まさか」の坂を超える秘訣や、苦難や試練に対処する方法はいくつもあるかも知れません。しかし、真の解決は天地を創造された唯一の神を信じることが最も確かな秘訣であると信じます。