聖 書:ヨハネによる福音書 第12章20~28節
12:20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
12:21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
12:23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。
12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
12:26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
12:27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
12:28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
前回のヨハネ福音書は、有名なラザロのよみがえりの箇所であった。12章は大きな区切りになる。マリヤの香油の注ぎがあり、棕櫚の主日のエルサレム入城、受難週が始まり、イエス様の十字架が目前となる。ヨハネは独自の筆致で詳しく受難週を記す。
Ⅰ.ギリシャ人改宗者の登場
過越しの祭がエルサレムで行われる最中、数人のギリシャ人が来ていた。ユダヤ教改宗者であろう。文化、言語、背景が離れていてどのように知ったのか不思議だが、ここに真理があると信じた。日本人がキリスト教信仰を持つことも隔て、距離があるが、彼らが乗り越えたものは極めて大きい。彼らはエルサレムでイエス様を知り、旧来のユダヤ教を越える真実を感じ、ピリポの元に来た。ピリポはギリシャ名でありピリポの背景にはギリシャ的な要素があったと思われる。ピリポはアンデレに相談し、二人はイエス様に伝えた。1章の召しの記事で、アンデレはペテロに伝え、ピリポはナタナエルに伝えた。彼らはつなぎ合せる大切な働きを担った。イエス様に出会うために、執りなし手、仲介役が必要とされる。真実を歪めず、ありのままに伝える必要がある。
Ⅱ.一粒の麦というイエス様の答え
遠来の客人が面会に来たが、イエス様の答えは単刀直入である。イエス様は間もなく起こる十字架の受難を栄光と呼ばれ、一粒の麦の死にたとえられた。一粒の麦は地面に隠れ、麦粒自体は失われるが、青い芽が出て、真直ぐな茎を伸ばし、穂がなり実が結ばれる。ここで死が強調されるかに思われるが、私はそうでないと感じる。麦粒はその姿は無くなるが、そこから生え出る芽には命の連続性がある。ここで死が拡大されるのではなく、命が続きそこに豊かな結実があることに注目したい。イエス様は十字架の死によって肉体の命は失われたが、神様の永遠の命を復活によって示された。自らを認め神様に立ち返り、イエス様を救い主と信じる者に永遠の命を与えられる。イエス様の一人の死によって、全ての人に神様の命が与えられる豊かな連続性がある。
Ⅲ.イエス様の心の動きを超えて
27節にイエス様が心騒がされ、お救い下さいとまで言われた御心はどのようなものであったろうか。このためにこの時に至ったと言われ、父の御名あがめられるようにと言われているので、十字架に向かう決意は揺るがれてはいない。心が騒ぐというのは、心が波立つ(ヨハネ5:4)感情を表す言葉である。イエス様は十字架に向かって、岩のように不動の意思を持たれていただろうが、冷たい鉄のような心ではなかった。祭司長たち、パリサイ人らの敵意、群衆の無理解、弟子たちでさえ不十分 … 四面楚歌で重荷を負って、全人類の救いという史上最大の使命を遂行されていく。ここで神様の御声が響く(28節)。「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」イエス様への励まし、人々への証明であった。
今私たちもイエス様から神様の命をいただいて一粒の麦とされている。この命を神様のために用いていこう。