聖 書:ローマ人への手紙 第5章1節~11節
5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
5:6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
5:7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
5:11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

フレデリック・ワッツ(1817~190)の作品に「希望」という版画があります。この絵は地球儀にまたがった一人の目を患った女性が、一本の残った弦に一縷の望みを抱きながら曲を奏でようとする姿を描いたものです。
今日は「希望に満ちた勝利の人生に」について考えて見ましょう。聖書において「希望」は多くの場合「信仰と愛」と関連しています。丁度「赤、白、緑の三色団子」のように「信、望、愛」は一体として考えられています。

Ⅰ.信仰によって義とされた者
聖書が書かれた時代は、キリスト教徒にとっては苦難の時代でした。すでにバプテスマのヨハネやヤコブたちは殉教し、やがてパウロにも迫害の手が伸びつつありました。わが国においてもカトリックに対する迫害がありました。戦時中にはホ-リネス教会に対する迫害があり、8名ほどの牧師は獄死しました。現在のわが国には信教の自由が保証されていますから、昔のような迫害はありませんが、この世の中にはいじめやハラスメントがあって、純粋に信仰を守ろうとすると、いろいろな抵抗を感じることがあるかも知れません。そうした中でパウロは、「神によって義とされた者は神との平和を得ていること、さらに神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」という心境を証ししているのです。

Ⅱ.失望することのない希望
希望とは単なる非現実的な願望ではなく、必ず叶えられることを信じる信仰による願望です。この世の中には、誰にでも様々な形において患難は存在します。人間は弱い者ですから、一寸した患難や試練にギブアップしてしまいます。それでは真の希望の持ち主になることは出来ません。そこで必要なものが忍耐なのです。聖書は「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(3~4)と教えています。パウロは「患難をも喜んでいる」と言っています。何という強い信仰ではありませんか。冬季オリンピックやパラリンピックでは大きな感動を覚えました。彼らは厳しい訓練の耐え、たとえメダルに届かなかったとしても、銅で終わっても、必ずメダルを取ること、銀や金メダルを取ることに、気持ちを切り替えていました。そこに聖書が教える「患難をも喜んでいる」という姿を見ることが出来ました。患難のないところには希望は生まれません。そこで生まれた希望は「失望に終ることはない」のです。

Ⅲ.聖霊によって注がれる神の愛
「キングス・ガーデン」の理念は「夕暮れ時に光がある」(ゼカリヤ14:7)です。夕暮れ時とは暗い、希望のない、人生の終末を連想します。しかし聖書はその時にこそ光があり、希望が生じると教えているのです。なぜ「失望に終ることはない」のでしょうか。その理由は「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」からに他なりません。神の愛は「わたしたちがまだ弱かったころ(6)、まだ罪人であった時(8)、わたしたちが敵であった時」(10)にイエス様は私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくさったのです。ここに神の愛があるのです。

信仰と希望と愛に満たされて、希望に満ちた勝利の人生を送る者とさせて頂きましょう。