聖 書:ヨハネによる福音書 第15章12~17節
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

イエス様の最後の晩餐での惜別説教が続く。15章はまことのぶどうの木で有名な箇所になる。口語訳聖書で「つながる」という言葉は15:1~7のみで8回しか使われていない。メノ―という言葉の訳、ヨハネは他に約60回使う。他では「とどまる」「泊まる」「滞在する」等と訳される。イエス様とつながることはとどまることである。点と点の結びつきではなく、全体的な結びつきである。

Ⅰ.互いの愛の基盤(12節)
イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」と言われた。ヨハネ13:1「彼らを最後まで愛し通された」とあるように、弟子たちと出会われた最初の日から十字架の最後の息に至るまでの愛であったことが解る。まことのぶどうの木の話も、イエス様の愛が背後にある。実を結ぶことが第一ではなく、つながって命を得ることが第一にある。まず私たちがイエス様と結び合わされて、神様の命に生かされていくことが最初である。神様はもっと多くの枝がそこにつながるように願われている。一つ一つの枝が生かされて実を結ぶように神様が手入れをしてくださる。野生の酸い実ではなく、豊かで甘い実が実ることができる。神様にあって実りある歩みをするように愛をもって導かれている。

Ⅱ.互いの愛の勧め(13節)
13節でイエス様は互いに愛し合うことの最大のものとして「人がその友のために自分の命を捨てること」と言われた。Ⅰヨハネ3:16も有名であるが、どう捉えれば良いのか。バックストン師ヨハネ福音書講義に2つの大切なこと「第一、あなたは神に拠り頼むことができますか。」「第二、神はあなたに拠り頼むことが可能ですか。」とある。命がけで愛せよという言葉に圧倒されるのではなく、先ず私たちが神様に拠って立つものかと問われ、そうであれば神様は私たちを用いることがお出来になる。「お言葉ですから」(ルカ5:5)をしぶしぶと捉えるのか、絶対の信頼をもってと捉えるのか2通りある。神様は私たちを最も良くご存知であり無理強いされない。旧約聖書は神様の友としてアブラハム(創世記18章、ソドム滅亡を知らせた)モーセ(出エジプト33:11)を挙げる。私たちさえも友とおっしゃってくださる真実に従おう。

Ⅲ.愛による選び(16節)
イエス様は弟子たちを選ばれたと言われる。私たちは神様がある人を救いに選ばれたとは考えていない。Ⅱペテロ3:9「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」に神様の愛のご意思がある。ここでの選びとはペテロやヨハネたちが弟子として選び出されたと受け止める。弟子として立てられ、実を結ぶために遣わされることを示している。12弟子はそれぞれの使命を果たすために選ばれ、立てられ、遣わされた。全てのキリスト者はそれぞれの使命を果たすために選ばれた存在である。選びは自己満足、自己義認といった自らのためにではなく、互いに愛し合うためにである。

キリスト者も教会も、この世に互いに愛し合う具体的、実際的な愛を示すことによって神様の栄光を表わしていく。