聖 書:ピリピ人への手紙 第1章1節~11節
1:1 キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
1:2 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
1:3 わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。
1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
1:7 わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。
1:8 わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。
1:9 わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、
1:10 それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、
1:11 イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。

 人は神様によって「交わり」に生きる者として造られた。神様は「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と言われて、人を造られた(創1:26)。神様ご自身が交わりを豊かに持たれている方であり、造られた人間もまた、交わりに生きている。神様との関係、また人と人との関係が私たちの人生に与える影響は実に大きい。牢獄にいるパウロから、彼を支援していた聖徒たちに送られた「ピリピ人への手紙」からは、人間関係について多くを教えられる。

1.恵みと平安(1-2)
1節の「聖徒」という言葉には「他のものと異なっている」「分離している」という意味がある。今日の日本において、キリスト者の人口が統計上で全体の1%を超えることはない。しかし少数であること気後れをする必要はなく、「聖徒」とされていること自体、違っていることを意味しているのである。何が違うのか。もちろん弱さのある人間ではあることについては変わらない。しかし「キリスト・イエスにある聖徒たち」とされている。このことについてバークレーは「絶えずキリストにある大気の中で、キリストの御霊の中で生きること」と述べる。わたしたちは、御霊の内住、助け、導きの中で生きる者とされている。教会のみならず、日常の生活や働きの場である家庭、職場、コミュニティ、それらすべての場において、御霊に導かれて「キリストにある聖徒たち」として生かされているのである。
「恵み」には喜び、楽しみ、美しさといった意味がある。また「平安」は消極的なものではなく、争いや衝突があったとしても和解に向かうことができ、そこから生まれる平安に生きる状態を指す。この「恵み」と「平安」があるようにと、パウロは祈っている。

2.感謝の祈り(3-8)
「あなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し」「あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り」(3-4)とある。パウロはピリピの人たちの「存在」を感謝し、喜んでいる。キリスト者同士は、お互いの存在を感謝しあう関係にあることをここに見出す。
またパウロは「働き」への感謝の祈りもささげる、ローマの牢獄とピリピ教会には長い距離があったが、距離は離れていても共に神様の働きにあずかっていることが、大きな喜びであった。しかもその働きは神様によって完成せられるという確信があった(6)。パウロは、この福音宣教の働きは必ず完成に導かれると確信しながら、共に働く喜びに満ちていた。そしてピリピの人たちに「熱愛」(8)をいだいていた。「熱愛」という言葉は、イエス様が群衆を「かわいそうに思う」「深くあわれむ」という表現に通じる言葉である。それほどの思いで愛していたのである。

3.愛する者のための祈り(9-11)
パウロはまた、ピリピの人たちの愛が増し加わり、深い知識や鋭い感覚が与えられ、重要なことが判別できるようになることを祈る。また、彼らが純真で責められるところのないものとなり、義の実に満たされ、神の栄光とほまれをあらわすに至るようにと祈る。この願いの根本にあるのは、神様との関係が豊かにされることである。パウロは一人一人の神様との交わりが深まり、愛が増して実が結ばれることを切に願い、熱心に祈ったのである。
兄弟姉妹同士、お互いが神様に近づくことができ、置かれているすべての場所でキリスト・イエスにあって生き、共に主の働きをさせていただけるように祈っていきたい。