聖  書:詩篇 第100篇1節~5節
100:1 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
100:4 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

今朝は本年度教団標語・聖句に続いて、本年度教会標語「神の愛に仕える-奉仕・献身」、教会聖句・旧約聖書(詩篇100:1・2)から語る。私は思春期、神様を信じることは、窮屈で退屈な一生を過ごすことだと思っていた。神様にある喜びはイエス様の愛に変えられるまで解らなかった。神様を喜び、神殿に礼拝をささげる信仰者の詩歌がここにある。

Ⅰ.神様を喜ぶ(1・2節)
神様にある喜びは、この世の喜びとは違う。この世の喜びは慶事に伴っている。勿論、これらを喜び祝うべきだが正反対の事がらも人生には起こる。喜びは何処かに吹き飛んでしまい、一喜一憂、右往左往しやすい。神様にある喜びとは、有名なネヘミヤ8:10「主を喜ぶことはあなたがたの力です」とつながる。ネヘミヤはバビロン捕囚後にエルサレム城壁再建のために尽くした。エズラ、ネヘミヤの時期は実際の復興と霊的な復興がなされた。かつての罪を悲しみ、悔い改め、現在の赦しと回復がなされていく。赦しの上にある神様との和解、平安(ローマ5:1・2)である。神様にある喜びとは、神様との関係の回復、神様に受容されている喜びである。目に見えるものに左右されない、永遠に与えられていく魂の喜びである。神様にある喜びは不動、不変であるからこそ力となり、感謝がある。

Ⅱ.神様を知る(3節)
続いて神様を知ることが求められている。聖書で知るとは単なる頭の知識ではない。知的な理解でもあるが、体験的な理解である。旧約聖書の大きな教訓はイスラエルの不信仰である。預言者の時代は、イスラエルの背信が天に届いていた時代である。この事実はイザヤ1:2~6、エレミヤ8:4~7等枚挙にいとまがない。イスラエルに神様が真理を教えられ、彼らが知っていても、実際には知らないのと同然である。この世で神様の栄光を表わすという御心とは遠く離れていた。3節は神様が私たちの創造者、所有者、保護者であることを知れという。神様を意識できない私たちは独立独歩していると思いやすい。神様は私たちを造り、帰属させ、保護されている。私たちには神様のご目的があり、神様によって生かされている、感謝がある。

Ⅲ.神様に感謝する(4・5節)
神様への感謝は、賛美(4節)「ほめたたえ」となり、神殿での礼拝(4節)「門に入り、大庭に入れ」に向かう。神様と共にある共同体の礼拝がささげられる。現在の私たちの礼拝も神様との平和を頂いている感謝、神様に生かされていることへの感謝が賛美とされていく。神様の恵みが(5節)「かぎりなく」「よろず代に及ぶ」とあるように永遠につながっていく。私たちの礼拝は、今この時もささげられ、主の来臨の日まで続く。天上の礼拝は永遠に続いていく。週毎の礼拝が、単なる定まった儀式ではなく、終末につながるものである。礼拝は御前に立つという緊張感を持って行おう。礼拝が再び来られる主を待望し、主にお会いできる希望を持つ時であろう。
短い詩篇であるが信仰者、礼拝者の姿を教えられ、主が来られる日まで希望の礼拝をささげよう。礼拝こそが力となって私たちの日々を生かしていくことができるように。