聖  書:コロサイ人への手紙 第1章24~29節
1:24 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。
1:25 わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。
1:26 その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
1:28 わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。
1:29 わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。
 2018年度のテーマは奉仕と献身である。礼拝説教も特別な場合を除いて、この主題で語っている。コロサイ人への手紙はパウロの獄中書簡の一つである。コロサイは、現在のトルコの小アジア、当時のアジア州の内陸にありラオデキヤ、ヒエラポリスに近い。コロサイの伝道は、使徒行伝中パウロの伝道旅行に記述はない。使徒行伝19:10には、パウロがエペソ・ツラノの講堂で2年間語り続けた結果が記されている。コロサイのみならずアジア州には福音が伝えられていった。パウロの弟子エパフラスはコロサイ出身であり、ピレモンはコロサイ教会を支えていた。アジア州の諸教会の中でコロサイも格別なつながりがあった。

 

Ⅰ.宣教の苦難(24節)
 この箇所でパウロはまず「苦難」「苦しみ」と言っている。私たちは生きていく上でさまざまな苦難がある。ピリピ3:9~12ではキリストの苦難にあずかると言う。信仰を持つがゆえの苦難、戦いと言える。ここでは、イエス様の十字架になぞらえられている。イエス様の十字架と一つになる。イエス様の十字架に死に、復活のイエス様の命に生きることをパウロは願っている。イエス様をただ救い主と信じる信仰ではなく、イエス様の十字架と一つに生きていく信仰をパウロは求めた。信仰の戦いは内にある戦いであるが、また信仰には外にある戦いもある。Ⅱテモテ3:10~17にはアジア州の諸教会での迫害が記されている。ユダヤ人、異邦人らによる迫害があり、外から襲い来る戦いである。生きた教会で戦いのない教会はない。教会に戦いがないのであれば、死せる教会とも言える。

Ⅱ.宣教の奥義(25-27節)
 パウロは神の言の奥義は今や明らかであると言う。この奥義は「うちにいますキリストであり、栄光の望み」である。奥義は原語でミステリオンであり、英語のミステリアスになる。コロサイ教会にあった間違いとして、2:16の飲食、祭のこと等はユダヤ人の律法主義者を指す。また、2:8だましごとの哲学、2:18天使礼拝はギリシャ哲学に影響されたグノーシス主義者である。どちらも排他的なエリート主義である。何の区別をせず、全ての人を救うイエス様の救いにこそ、公平がある。20世紀の神学者アドルフ・ダイスマンは私たちと立場は違うが、「主は私たちの内に入ってきて下さり、力を与え、喜びや平安を与えてくださる。また私たちは、世界に霊的に存在しておられる主のうちに生きている。このことは、ちょうど空気と我々の関係のようである。私たちは空気を取り入れその空気に含まれる酸素によって食物を体内で燃焼させて力を得ている。他方私たちは空気のなかに生きている。」と言う。全ての人を救い、キリストによって生かされるこの奥義に私たちは導かれている。

Ⅲ.宣教の動力(28-29節)
 イエス様が私たちの内にいてくださる。イエス様の持たれる良きもの全てによって私たちも満たされていく。これは奥義でなくして何であろうか。イエス様を内に持つことはただの希望ではない、光り輝く「栄光の望み」(27節)である。イエス様を内に持つことは聖化のメッセージとして語られる。栄光の望みとは聖化に続いて、栄化への望みである。私たちがイエス様の良きものによって変えられ、さらに栄光へと結び合わされて行く。聖化と栄化は信仰者個人の恵みではあるが、決して自己満足で終わらない。28節には「宣べ伝え」「訓戒し」「教え」と出てくるように内的な信仰が引き上げられることは、外的な宣教・教会形成へとつながる。

一人一人の信仰が強められていくために、教会が前進していくためにパウロは苦闘した。私たちも同様である。内に潔さと栄光の望みを与えて下さる主は、宣教へと力を与えて下さる。困難に失望せず、緩むことなく栄光の望みを持ち続けて進もう。