聖 書:コリント人への第二の手紙 第4章16~18
4:16だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

 17日の敬老の日に合わせて、本日は敬老祝福礼拝です。日本では今月の15日の時点で100歳以上の高齢者は全国に6万7824人おられる。今年度中に100歳になる人を入れるとさらに3万2097人増える。 (厚生労働省調査) 聖書でも長寿は神様からの祝福と言われるが、一方で超高齢化社会によって老老介護、認知症、孤独死などの社会的な問題に苦慮している。人が「老いる」ことは寂しく辛い面もあるが、キリスト者として年を重ねることには尽きることのない希望がある。

1.内なる人は日々新しくなる(14節)

 外なる人とは肉体と生まれながらに持つ人間性である。それをパウロは人の肉体をもろく壊れやすく粗末な「土の器」(7)にたとえる。パウロは「四方から患難を受けて」肉体を痛めつけられ、人々から罵倒、嘲笑か無関心の精神的な「迫害に遭って」倒され滅びそうな、死の瀬戸際まで何回も追い詰められた。外なる人は滅びへと向かう。(8、9)高齢になれば容姿と体力と知力は衰えて、人生で血気盛んな時は瞬く間に過ぎ行く。ところがパウロは「内なる人は日々新しくされる」と告げる。内なる人とはキリストの救いを信じたことで新しくされた自己である。救い主の復活に続くわざとして信者の復活がある。主イエスは信者を「復活としての神の子ども」(ルカ20:36/新改訳)と呼んでいる。人はキリストの十字架による救いを信じて新しいいのちを得る。新生(救われること)はセカンド・バースデー(二度目の誕生日)と言われる。わたしたちは朽ちない永遠のいのちを主にあって持っている。だからキリスト者は外なる人が衰える一方で、内なる人はそれに反比例して新たにされるという真実の希望がある。ここにパウロが加齢に落胆しない(勇気を失わない/新改訳)わけがある。内なる人は日々キリストの似姿に近づく。

2.永遠の重い栄光を待ち望む(15節)

 パウロは続けてなぜ苦難が連続で起きても落胆しないかを語る。それは「しばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(15)パウロが受けた苦難のリスト(Ⅱコリント11:23~28)などを読めば決して軽い患難ではないことがわかる。しかしパウロは将来天において約束されている重い栄光の永遠性に比べれば、現在地上で受けている苦難は軽いものであり束の間と見ることができた。わたしたちは「復活としての神の子ども」である。それならばローマ8:17を心にとめよう。「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」わたしたちが世にあってキリストに忠実に生きて、主と一つになろうとするために味わう一切の苦難を受け入れるなら、キリストの栄光にあずかるものになる。キリストと共同の相続人、なんたる光栄であろうか。

3.心の目で永遠を見据える(16節)

パウロはさらに今見えているものではなく、まだ見えてはいないがやがて啓示されることに注目している。それはキリストが再臨と神の国の実現である。今は見えていないがやがて啓示されることは永遠だ。この世と世にあるものはいずれの日にか朽ちてなくなっていく。来るべき世は、信者の栄光の復活の体をも含めて永遠に続き消え去ることはない。わたしたちの最大の望みはこれからやって来る。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:20~21)目に見えるものにのみ心惹かれないで、心の目で永遠に変わらないものを見据えいこう。(ローマ8:24~25)