聖 書:ヨハネによる福音書 第13章12~15節、34~35節
13:12こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。 13:13あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 13:14しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。 13:15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

13:34わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 13:35互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

 今日は世界聖餐です。「世界聖餐日」(World Comunion Sunday)とは毎年10月の第1聖日に世界中の信徒が教派を超えて、心をひとつにし、イエス様の十字架と救いに思いをはせ、キリストにあってひとつであることを確認し、聖餐式にあずかるもので、世界規模の大変重要な日のひとつ』と紹介された教会ホームページがた。世界各地に点在する主の教会が、人種民族、国境、言語の壁を超越して、神の子どもたちが、同じ聖日に聖餐式をそれぞれの教会で行うことの意義は深く大きいと思う。私たちキリスト者はやがて天に帰り、黙示録にあるように、天上の礼拝で唯一の神と御子を共に讃えて礼拝する。その日を待ち望みつつ地上で別れて礼拝を守る
 2018年は今月から下半期に入ります。今月から教会に与えられたビジョンにまつわる聖句を深く味わい、共に考えていきたい。今日のキーワードは「十字架の愛で互いに愛し合いなさいを取り上げる

1.洗足の愛で互いに愛し合う
 ヨハネによる福音書13章の洗足の記事に続いて、この章からいよいよイエス様の受難に近づく。14章からはいわゆる決別説教が16章まで続き、17に至って大祭司の祈りと言われるイエス様の長い祈りで幕を閉じる。本章の31~35節までは決別説教の序ともいうべき箇所だ。
 1節から洗足の様子が克明に語られる。1節の「最後まで」の意味は極みまで、極限までという意味だ。その意味は今晩食事の後、ゲッセマネの園でイエス様はひとり捕らえられる。する弟子たちと過ごす文字通り最後の晩なのだ。イエス様の愛といつくしみは弟子たちの足を一人ひとり洗うという行為に込められている。それは自分を裏切ろうとしているイスカリオテのユダの足でさえも、当時の習慣に従って洗い清めた。弟子たち同士は常に一番を競い合って他に譲ることがなかった。弟子たちが師であるイエス様自らがしもべの仕事を黙々とされるのを困惑していると、7節のおことばが心に響く。
 イエス様には思惑があった。それは12~14節にあるように、「手本を示す」(「模範を示す」新改訳2017)ためである。人は口で指図するのは容易い。だが本当に新しい戒めを守てもらいたいなら、互いに愛するとはどうゆうことかを行為で示すことはさらに効果がある。だからイエス様は「わたしがあなたがたにしたとおり」(15)された。イエス様は有言実行の方なのだ。

2.十字架の愛で互いに愛し合う
 13:1~20でイエス様は洗足の行為によって愛の模範を示されたが、やがて受難と十字架によって、徹底してご自分を与え尽くすことで真の愛を示され。まさしく神は人とな罪びとを極みまで愛されたのだ。それは自分に好意的な人々だけでなく、自分に無関心な人や自分に悪意を持ち危害を加える人をも赦し受け入れ愛する愛である(ルカ23:34)。わたしたちの教会のビジョンは、イエス・キリストの十字架の愛を知り…互いに愛し合う。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(Ⅰヨハ4:19)神の愛を受け取った者は同じ愛に生きることを願う

3.互いに愛し合うは神の愛を証しする
 イエス様は洗足の愛を経て究極の愛の姿は十字架の愛に至る。「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハ13:35)。キリスト者同士、弟子の相互愛は外の世界に向かう証しとなるのである。しかし同じ信仰のもとにあっても、愛し合うどころか理解し合うことが難しいお互いもあるのが現実だ。であるならば教会や家庭、他の親しい共同体、わたしたちの相互愛の実践を訓練する場として与えられている。身近な人同士で互いに愛を示そう