聖  書:マルコによる福音書 第14章22~26節
14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
14:23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。
14:24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
14:25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
14:26 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

世界聖餐日を迎えた。世界中の教会が共に聖餐式を行い、違いを越えてキリストの体と血によって一つとされることが目的である。1940年に北米キリスト教教会連盟から始まった。戦争が色濃くなる時代背景を思うと、今の時代にも主にある平和と一致を願う。

Ⅰ.聖礼典(サクラメント)とは

カトリック教会は歴史の中で7つを秘跡としてきた(洗礼・堅信・聖餐・告解・終油・叙階・結婚)。プロテスタント教会は聖礼典として洗礼と聖餐の2つに止めた。これはイエス様が弟子たちに直接命じられたことによる(洗礼:マタイ28:19「父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、」聖餐:ルカ22:19「わたしを記念するため、このように行いなさい。」)。聖礼典とは単なる儀式ではなく、目に見えない真理を目に見える形で表すものである。神様は天地創造の業を、無から有として生じさせられた。イエス様もクリスマスに目に見える形でこの世に誕生された。キリスト教とは目に見えないから有難いではなく、目に見える形、理解できる形で私たちに示され、啓かれる宗教である。

Ⅱ.聖餐の始まりとは
旧約聖書では過越しの祭に聖餐の予表(前触れ、ひな型)を見ることができる。出エジプト記12章には、出エジプトの際に、十の災いを神様が起こされ、最後にエジプトの全ての初子が撃たれる恐るべきできごとに至る。イスラエルの家庭では、一頭の傷のない小羊が屠られ、血はかもいに塗られ、肉は火に焼かれ、過越しの食事とされて、災いから守られた。
イエス様の最後の晩餐が過越しを記念した食事だったことは、神様の深い御旨であった。過越しでは羊一頭が家族のあがないとされた。イエス様の十字架は神の独子の死によって全人類のあがないが成就された。かつての過越しは、イエス様の十字架のひな型であった。イエス様は過越しの食事を弟子たちと共にされた(マルコ14:17-21)。続いてパンを裂き、ぶどう酒の杯を取られた。この場面は劇的なほどに象徴的である。過越しという旧約の古い契約が、イエス様の十字架という新約の新しい契約に取って代わられるその時なのである。イギリスのW.F.フレミングトンは「この第一回目の晩餐は、全時代の全教会の代表である弟子たちが、そこで第一回の聖餐式にあずかったのである」と言う。

Ⅲ.聖餐の意味とは
聖餐の私たちへの意味は式文の聖句に表されている。Ⅰコリント11:23-25は過去を表す。イエス様の十字架のあがないがなされ、私たち自身も罪からの救いをいただいている。ヨハネ6:53-55は現在を表す。私たちが主の命の交わりの中に生かされている。Ⅰコリント11:26は将来を表す。主の再臨の日まで私たちは主の教会で聖餐の交わりに生かされる。主の栄光を拝するその日まで、地上において聖礼典を守りながら完成の日を待ち望む。

私たちの聖餐が命あるものとしてささげられ、ここに多くの人々が加わり、共に主の救いと命を喜ぶことができるように。再臨の日まで、祈りつつ、労しつつ、主の業を進めよう。