聖 書:ヨハネによる福音書 第14章1~6節
14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
14:5 トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
「人間はどこから来て、何をしに生まれ、そしてどこへ行くのか」という問題は、古今東西すべての人の根底にある疑問です。人間には「生・病・老・死」という四大苦悩がある。中でも「死」の問題は最大の苦であることは間違いがありません。聖書は「人間は神のかたちに似せて創造された」と教えている。「神のかたち」の最大の意味は「霊性」です。 聖書は「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道の書3:11)と記しています。
武士、歌人・僧侶として知られた西行(さいぎょう)は、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という歌いました。その心情は「目には見えないけれど、誰かや何かがいつもそばで見守ってくれている。そう感じられるだけで、涙がこぼれるほどありがたい」という意味です。
一休禅師は「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月をみるかな」と歌いました。この歌もまた,日本人特有の心情です。富士山に登るには幾つものルートはあるが、どのルートであったとしても同じ頂上にたどり着き、同じ月を眺めることができる。つまりどの宗教であったとして真理にたどり着くことが出来ることを言ったものです。果たしてそうでしょうか。ここに日本人の宗教の特徴があります。一つは神道の影響で日本人はアミニズム(精霊信仰)に慣らされています。もう一つは仏教の影響で諦観(あきらめ)に染まっています。仏教は大乗仏教(中国経由)の影響で、冥土・極楽思想が生じましたがその根拠はありません。そうした中で日本人は宗教心には富んではいるが信仰心には乏しい国民だと評価することができます。宗教心とは「信じる対象よりも信じる心を重視」することであり、信仰心とは「信じる心よりも,信じる対象を重視」することです。
Ⅰ.わたしは道である。
「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますが、まさにローマの発展は道路網の整備にありました。わが国は島国です。本島でさえ大陸とは違います。ましてや北海道、四国、九州は言うに及ばず、他の島々、特に孤島と呼ばれる住民の孤立感は当人たちでないと理解できないでしょう。今やわが国は青函トンネル、関門トンネルで結ばれ、一体化されました。明石海峡大橋、瀬戸大橋などによって本島と四国が結ばれました。往来の利便性は元より、産業の活性化、住民のモチュベーションが上がることは確かです。つまり橋は本島と孤島が結ばれる道の役割を果たしたのです。
それではイエス・キリストが「わたしは道である」と言われた意味は何なのでしょうか。イエス・キリストは心配している弟子たちに「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのもとに迎える」と言われました。「父の家」とは天国のことです。つまり人間は神によって創造された存在なので、この地上における使命が終わったならば、帰るべき天国がある、という意味です。しかし、天国は聖なる所ですから誰でもが簡単に行ける所ではないことは確かです。聖書は「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブル12:14)、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」(ローマ3:23)と教えています。そのために、神の御子であるイエス・キリストが神と人間の間に、十字架という橋を架けて下さったのです。
Ⅱ.わたしは真理である。
真理とは一般には「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道」と説明されます。しかし実際的には「何が真理であるか」に関しては、答えは永遠に出ないでしょう。そうした中でイエス・キリストが「わたしは真理である」と言われたのは、単なる学問的な発言ではなく、私たちの存在や運命に関わる発言です。つまり人間の深奥に存在する永遠の疑問に対して明快に答えを示して下さったのです。その根拠はイエス・キリストは被造物ではなく、創造者であるという点です。
ヨハネは「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(1:1~4)
Ⅲ.わたしは命である。
生命とは「生物が生きていくためのもとの力となるもの」と説明されます。聖書は生物、特に人間の生命に関して次のように教えています。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)。つまり人間は神の命に与った者であり、神の命とは永遠に生きる命を意味しています。
もう一つ聖書は「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(第一テサロニケ5:23)。
人間は「霊も魂も体」という三つの部分から構成されています。一番外側は「体=肉体」です。中側は「魂=精神」です。内側は「霊=真の命」です。聖書は「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(伝道の書12:7)と教えています。
イエス・キリストは神なるお方でしたから、神と私たちを遮断していた罪と死と悪魔の力に打ち勝って三日目に復活して下さり、天国に私たちのために場所を用意して下さいました。まことにイエス・キリストは神の命そのものでしたから、イエス・キリストを救い主として信じる者を天国に迎えて下さることが出来るのです。