マタイによる福音書11章28節~30節

(28)すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(29)わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。(30)わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

昨年はどのような1年でしたか。
うれしかったこと、楽しかったこと、うまくいったことなど多くの恵みを数えることができるでしょう。でもその反対の人もいるはずです。悲しかったこと、悔しかったこと、残念だったこと。それらを引きずったままで新しい年を歩むのはあまり良いことではありません。片付けたい、精算したい、立ち直りたいと思いませんか。人生にはいろいろな課題(くびき)がついて回ります。イエスが話されたことから、3つの「くびき」について思い巡らしてみましょう。
Ⅰ わたしの「くびき」
 私たちのかたくなさや不信仰のために、くびきを負うことがあります。でも神はすべてをご存知でことを進めておられると思います。神が許される「くびき」は訓練のため、指導のためです。(ヘブル12:5-6、ヤコブ1:2、Ⅰペテロ1:6、)
Ⅱ 負いやすい「くびき」
 くびきは苦難や試練を意味します。しかし神が私たちのことを思って与える「くびき」は負いやすいとイエスは言われました。旧約時代の「くびき」は重荷でしかなかったでしょう。(マタイ23:4、使徒15:10) 神はイエスを私たちのもとに送り、重い「くびき」を身代わりに負い、負いやすい「くびき」に変えてくださった。
 教会学校の教師が「くびきとはどういうことかな?」と尋ねました。男の子が手を挙げて「動物の首につけてお互いに助け合う道具です」と答えました。「じゃ、イエスさまが私たちにつけたくびきはどういうことかな?」と質問すると、女の子が「私たちの首を包んでくださる神様の腕」と答えました。
Ⅲ 恵みをもたらす「くびき」
 試練は初めはイヤなものです。(ヘブル12:11)でもそれによって強められ、耐えられなくなると「来なさい」と招き、1コリント10:13のあるように脱出の道を設けてくださいます。「くびき」によって学び(29節)、たましいの安らぎ(29節)、休み(28節)をくださいます。(ヤコブ1:3-4、12)
 今年もいろいろな出来事に遭遇するでしょう。神様のくださる「くびき」は負いやすいのです。

ヘブル人への手紙12:5~6
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。

ヤコブへの手紙1:2
わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

ペテロへの第一の手紙1:6
そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。

マタイによる福音書23:4
また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。

使徒行伝15:10
しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。

ヘブル人への手紙12:11
すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

コリント人への第一の手紙10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

ヤコブへの手紙1:3~4、12
1:3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
1:4 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。