コロサイ人への手紙3章5節~17節

(5)だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。(6)これらのことのために、神の怒りが下るのである。(7)あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。(8)しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。(9)互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、(10)造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(11)そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
 (12)だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。(13)互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(14)これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。(15)キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。(16)キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(17)そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

 「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」に代表されるように、日本人の心の故郷は山紫水明の田舎にあるように思われる。そうした原風景の中で重要な役割を果たしているものに水車がある。水車は小川の流れで滑車を回し、それによって生じる力を脱穀や水田の引水に活用している。そこには何らの力みも無理もない。大自然に良く解け合った風景を見出すことができるのである。
 キリスト者の社会生活を考える時、この水車からよいアドバイスを得ることが出来る。水車は川との接点がなくても、深く入りすぎても回らない。程よい接点が大切である。キリスト者とこの世の関係においても同じである。
Ⅰ.絶つべきこの世の悪弊(5~11節)
 この世とは、神に背くサタンが支配する世界を意味している。我らキリスト者は当然この世の悪弊との関係を絶たなくてはならない。
1,殺してしまいなさい。(5節)
 これは不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲(偶像礼拝)などであって、自己の内に潜む罪が表面化したものである。
2.捨ててしまいなさい。(8節)
 これは怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、うそなどであって、対人関係において表面化する道徳的な罪を表している。
3.脱ぎ捨ててしまいなさい。(9節)
 これは古き人とその行いを表している。古き人とは生まれ乍らの人、つまり新生経験のない人を表している。これは前記2項目を含む総合的な表現である。
Ⅱ.積むべき神の国の善行(12~15節)
 キリスト者は神に選ばれた者、聖なる者、神に愛されている者であるから、それに相応しい善行を積むように勧めている。ここに、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、愛、平和、感謝の9項目が記されている。
Ⅲ.活用すべき神の動力(16~17節)
 社会にあってキリストの証人となることはそう簡単なことではない。事実、勝利なき生涯を送っているキリスト者は少なくない。聖書は「キリストの言葉を・・・豊かに宿らせなさい」(16)と勧めている。キリストの言葉は神の言葉であり、御霊の剣である。我らはみ言葉によって初めて知恵が与えられ、互いに教え合い、訓戒し合い、心から神をほめたたえる事ができるのである。み言葉こそが我らの勝利ある人生の秘訣であり、神の動力である。