エペソ人への手紙2章19節~22節

(19)そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
(20)またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
(21)このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
(22)そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

「家族とは、夫婦・親子・きょうだいなど少数の近親者を主要な構成員とし、成員相互の感情的な包絡で結ばれた第一次的福祉追求の集団である」と定義されている。核家族、家族の崩壊、家族の高齢化が進む今日でも家族の持つ意味は大きい。ただその意義が次第に薄れつつあることは事実であろう。聖書は「あなたがたは、・・・神の家族なのである」(19)と教えている。この言葉は、地上的、肉体的な血筋としての家族を否定するものではなく、そこに永遠的、霊的な意味を与えるために、神が計画されたものである。
Ⅰ.家族の創始者は神である。
 家族の最小単位としての核家族は、夫婦とその子という構成から成立している。神はそのために「自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創1:27)のであり、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創2:24)。このようにして神は血肉と霊的な要素を備えた家族を構築された。しかし残念なことにアダムとエバとの堕落によって霊的な意味は消滅し、血筋としての家族のみが継承され、その結果人間は「神の栄光のため」という創造の目的から遠く離れた存在となった。しかし第二のアダムであるキリストの贖いによって、彼を信じる者はだれでも神の家族の一員として迎えられるのである。
Ⅱ.教会は神の家族である。
 家族は、肉体的、精神的な欠落を互いに補い、喜びと悲しみを分かち合うのが本来の姿である。そこに人生の生き甲斐を見出す。しかし多くの家族はそうした本来の姿からほど遠いのが現実ではなかろうか。日野原重明先生(聖路加病院名誉院長)は、人の生き甲斐の三要素として、第一は「創造の喜び」、第二は「愛し、愛される喜び」、第三は「苦難に耐え、希望に生きる喜び」と言っておられる。このような生き甲斐を与えるのは教会を他にしてはない。教会こそは神に召された者たちの集団であり、神の栄光を顕すという目的と、信仰と愛と希望を共有する家族なのである。
Ⅲ.家族の救いは神の願いである。
 聖書は「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と約束している。我らは神の家族の一員であるが、血肉の家族と切り離された者ではない。彼らの異教的信仰や価値観とは対立するが、神はそのような未信の家族をだれよりも愛し、その霊魂の救われることを望んでおられる。彼らが一日も早く永遠的、霊的な神の家族の一員となるように祈り、つとめなくてはならない。間違っても教会やキリスト者が、彼らの救いを拒む障害となってはならない。
 教会は天国ではないが天国に最も近い所であると確信する。新年度は神の家族として祈り合い、分かち合いの実践につとめ、喜びと悲しみを共有し、多くの人々を神の家族の一員とすることを目ざして行こうではないか。