テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節

(16)いつも喜んでいなさい。(17)絶えず祈りなさい。(18)すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

 今年度の標語は「祈り合い、分かち合う-神の家族として」、聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)である。教会は「神の家族なのである」(エペソ2:19)。家族の崩壊が叫ばれて久しい現代にあって、家族としての教会の意義と役割はより一層大きなものとなる。本日はその一つとして「祈り合い、分かち合う」ことについて考えてみる。
Ⅰ.祈りは神の要求である。
 まず第一に「祈りは神の要求」である。神の言葉である聖書は私たちに二つのことを教えている。一つは「人間は何ものであるか」、第二は「人間はいかに生きるべきか」である。神は人間が神に従って清く、正しく生きるために、いろいろな命令を与えておられるが、「祈りなさい」という命令はその中心的な位置を占めている。有名な山上の垂訓では「求めよ、捜せ、門をたたけ」(マタイ7:7)と教えている。人間の幸不幸はひとえに神の要求に応えるか否かにかかっている。
Ⅱ.祈りは神との会話(交わり)である。
 それでは祈りとは何であろうか。第一は「神との会話」である。人間は一人では生きていけない。人間は互いに愛し合って生きる者である。しかし愛し合うより、憎み合って生きているのが現実ではなかろうか。その原因は、神との会話を無視しているからである。「人間は神に向かって造られたので、神の懐に帰るまでは平安を得ることはできない」(アウグスチヌス)。会話とは、自分の気持と相手の気持が交差することである。自分も話すが相手からも聞くのである。それによって相手を知り、自分をも知ることが出来る。そこに成長を見出すことが出来る。従って会話しない者は
独善と偏見に陥りやすいのは当然である。
Ⅲ.祈りは霊的呼吸である。
 第二に「霊的呼吸」である。人間は呼吸なくして生きることは出来ない。それは肉体的生命においても霊的生命においても同様である。呼吸とは「吐いて吸う」ことを意味し、それによって不純物を体外内に放出し、酸素を体内に送り込むのである。最近は有酸素運動が盛んであるのも意味あることである。吐くとは悔い改め、吸うとは信仰を表明することである。そこに聖霊の働かれる余地が生じるのである。
 神と会話(交わり)し、霊的呼吸することを通して、私たちは自分のことが良く分かるようになり、神のみこころを知るようになり、聖霊と力と愛に満たされるようになる。こうした祈りを教会員どうし心を合わせて行い、その中から得た恵みを互いに分かち会う教会として前進させて頂きたいものである。