聖 書:詩篇46篇1節~11節

(1) 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。(2) このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。(3) たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ
(4) 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。(5) 神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。(6) もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。(7) 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
(8) 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。(9) 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。(10) 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。(11) 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

 新聖歌280(讃美歌267)「神はわがやぐら」は、宗教改革者マルチン・ルター作詞作曲 になる有名な歌である。ルターは95箇条
論題をヴィッテンベルク教会の門扉に掲示して (1517年)以来、1546年までの30年間は神聖ローマ帝国並びにカトリック教会と戦
い、生 命の危険に脅かされる日々を送った。そうした迫り来る艱難の中で彼はこの詩を歌うこ とによって神を信頼し続けたの
である。
 詩篇46篇はかつて歌われた歌の中で最も雄大な信仰の歌であると言われている。時代 的背景はBC701年のアッシリアのセナケ
リブ王がエルサレムを包囲した際、奇跡的にイ スラエルが救助されたことが考えられる。その中心的内容は「万軍の主はわれら
と共に おられる、ヤコブの神はわれらの避け所である」。避け所とは避難所であり、安全地帯 である。そこには終始一貫「神
の臨在による平安、喜び、勝利」がある。この言葉によ って三区分(3節の後にもついていたと考えられる)される。
Ⅰ.自然における平安(1~3)
 我らの人生には様々な恐怖が生じる。自然災害に対する恐怖もその一つである。昔か ら「地震、雷、火事、親父」と言われて
きた。親父はともかくとして自然災害の恐ろし さは今も昔も変わらない。更に地球温暖化や熱帯雨林の伐採に起因する海面水位
の上昇 による陸地の水没などは現実味を帯びつつある。大きな宇宙の中のごく小さな惑星にす ぎない地球などは海のもずくに
過ぎないのかも知れない。聖書は「神はわれらの避け所 また力である。悩める時のいと近き助けである」と教えている。信仰者
はこのような自 然災害に対しても、神の臨在による平安を得ることが出来るのである。
Ⅱ.神の都における喜び(4~7)
 我らの信仰生活には様々な疑惑が生じる。神の臨在に対する不信もその一つである。 長年信仰生活を送っているが、今一つ確
信を得るには乏しい。いつも信仰と不信仰の間 を行き来している。そうした状態の人は結構おられるのではないか。人間は弱い
ものだ から、それも無理はないのではないかと居直ってしまってはならない。聖書は「一つの 川がある。その流れは神の都を
喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる」と教え ている。
 創世記2章10節には「また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し」と記されている 。この「一つの川」は象徴的には聖霊を
意味している。キリスト者はペンテコステ以降 この流れの中に育まれてきた。今も神は信仰者の中におられる。だからこそ「都
はゆる がない」し、「神は朝はやく、これを助けられる」のである。
Ⅲ.社会における勝利(8~11)
我らの社会生活には様々な戦いが生じる。家庭内や国家間の争いもその一つである。 人間は今日に至るまであらゆる所で戦い
を繰り広げてきた。今最も注視すべきことは核 拡散防止の問題である。しかし人間の話し合いではなかなか解決を見ることは難
しい。 否むしろ世界は破滅へと向かいつつあるのではなかろうか。 聖書は「来て、主のみわ ざを見よ、・・・主は地のはてまで
も戦いをやめさせ」と教えている。これは未来に対す る預言であるが、主は歴史の終末において必ず勝利をもたらせて下さる。
それがために 我らは「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と言われる主の前に、信仰をもっ て立たなくてはならな
い。
様々な恐怖、疑惑、戦いのある中で、神の臨在こそは我らの平安であり、喜びであり 、勝利であることを固く信じる者であり
たい。