聖 書:エレミヤ3章11節~23節

(11) 主はまたわたしに言われた、「背信のイスラエルは不信のユダよりも自分の罪の少ないことを示した。(12) あなたは行って北にむかい、この言葉をのべて言うがよい、『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。(13) ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむいてすべての青木の下で異なる神々にあなたの愛を惜しまず与えたこと、わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる。(14) 主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。町からひとり、氏族からふたりを取って、あなたがたをシオンへ連れて行こう。(15) わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う。(16) 主は言われる、あなたがたが地に増して多くなるとき、その日には、人々はかさねて「主の契約の箱」と言わず、これを思い出さず、これを覚えず、これを尋ねず、これを作らない。(17) そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。(18) その日には、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から出て、わたしがあなたがたの先祖たちに嗣業として与えた地に共に来る。(19) どのようにして、あなたをわたしの子どもたちのうちに置き、万国のうちで最も美しい嗣業である良い地をあなたに与えようかと、わたしは思っていた。わたしはまた、あなたがわたしを「わが父」と呼び、わたしに従って離れることはないと思っていた。(20) イスラエルの家よ、背信の妻が夫のもとを去るように、たしかに、あなたがたはわたしにそむいた』と主は言われる」。(21) 裸の山の上に声が聞える、イスラエルの民が悲しみ祈るのである。彼らが曲った道に歩み、その神、主を忘れたからだ。(22) 「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす」。「見よ、われわれはあなたのもとに帰ります。あなたはわれわれの神、主であらせられます。(23) まことに、もろもろの丘は迷いであり、山の上の騒ぎも同じです。まことに、イスラエルの救はわれわれの神、主にあるのです。

多くの教会の案内板には、大きく手を広げられたキリストと共に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに
きなさい。あなたが たを休ませてあげよう」(マタイ11:28)の言葉が掲げられている。この言葉は伝道メッセージとしても最適
であるし、礼拝の招詞としても最も多く 選ばれている。 
創造の初めに罪を犯し、神の顔を避けて園の木の間に身を隠した人間に対して、神が最初にかけられた言葉は「あなたはどこ
にいるか」であった 。エレミヤは「背信のイスラエルよ、帰れ。わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくし
み深い者である」と言う神のメッセージ を私たちに伝えている。主は今日も私たちを招いておられる。
Ⅰ.招きの主体と内容
 私のところにも保険会社、旅行会社、研修会、健康食品などの案内状が多数届けられる。そこで確認すべきことは発信人とそ
の内容である。「哲 学は神を捜し求めた人間の営みであるが、聖書は人間を捜し求めた神の営みである」と言われるが、聖書に
おける招きの主体は「主は言われる、背 信のイスラエルよ、帰れ」とあるように、神ご自身にほかならない。この神は、怒りの
顔を私たちに向けられるような御方ではなく、いつくしみ深 い御方である。更にその内容については「いつまでも怒ることはし
ない」(12)、「背信をいやす」(22)と明確に記されている。私たちは「我に帰れ 」と悲痛な思いで叫んでおられる神の声を聞か
なくてはならない。
Ⅱ.招きの対象
 エレミヤの記事における対象は明らかに北王国イスラエルである。イスラエル王国はBC930年頃に北王国イスラエルと南王国ユ
ダとに分裂した。 北王国はBC722年にアッシリヤに滅ぼされ、南王国は586年バビロンに滅ぼされた。エレミヤの活動した時代は
BC627年から約半世紀に及んだ。当時 はすでに北王国は滅亡していたが、神は「背信のイスラエルは不信のユダよりも自分の罪
の少ないことを示した」(11)と言われる。つまり北王国は 先に滅亡し、南王国はなお守られているが、比較対照した場合結局の
ところ五十歩百歩である。大切なことは、神はすべての罪人を招いておられる という神の大いなる恩寵である。「すべて重荷を
負うて苦労している者」が招きの対象である。それは「すべて」であって、そこには何らの条件も 制限もない。ただ「健康な人
には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31)とあるように、自分が「重荷を負うて苦労している」という自 覚がどう
しても必要になってくる。
Ⅲ.招きへの応答
エレミヤは「ただあなたは自分の罪を認め」(13)、それを「言いあらわせ」(13)と迫っている。彼らは神の招きに応え、「われ
われはあなたのもと に帰ります。あなたはわれわれの神、主であらせられます」(22)と告白している。その結果「まことに、イ
スラエルの救はわれわれの神、主にある のです」(23)という確信にまで至っている。
天国における婚宴の譬(マタイ22:1-14)の結論として「招かれるものは多いが、選ばれる者は少ない」という言葉が記されてい
る。招かれた者は早急 にこれに応える者でありたい。すでに招かれ選ばれた者は、天国に凱旋するまで感謝をもって信仰の道を
まっすぐに歩む者でありたい。