聖 書:使徒行伝2章14節~46節

(14) そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。(15) 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。(16) そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、(17) 『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。(18) その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。(19) また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。(20) 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。(21) そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。(22) イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。(23) このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。(24) 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。(25) ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。(26) それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。(27) あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。(28) あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。(29) 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。(30) 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、(31) キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。(32) このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。(33) それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。(34) ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、(35) あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。(36) だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。(37) 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。(38) すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。(39) この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。(40) ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。(41) そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。(42) そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。(43) みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。(44) 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、(45) 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。(46) そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、

ペンテコステ以降を聖霊時代と呼んでいる。それはペンテコステ以降の時代には聖霊が中心となって働いておられるからである。使徒行伝は聖霊行伝と言われる程にそのことを如実に証明している。ペテロは人々の「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」という批判に対して「酒に酔っているのではない」と反論して聖霊に満たされた状態になって説教した。その要点は「終りの時にはわたしの霊をすべての人に注ごう」である。この文脈には旧約からの引用が5ヶ所(『』)ある。(17-21)はヨエル2:28-32、(25-28)と(31)は詩16:8-11、(30)はサムエル下7:12-13、(34-35)は詩篇110:1である。
Ⅰ.「わたしの霊」とは何か。
 神は霊なる存在である。霊ではあるが零なるお方ではない。霊なる中に神のすべてが存在している。その一つとして神の聖性がある。神は聖なるお方であるので汚れた中にはお住みにはなれない。神がいかにご自身をすべての人に注ぎたいとお考えになっても、汚れた罪人はそれを受け取ることができない。ここに神の痛みとジレンマがある。しかし幸いなことに「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう」と神は言われる。これはヨエルの預言である。ペテロはペンテコステの日にこの預言が成就したことを伝えている。聖霊は「力と愛と慎みの霊」(Ⅱテモテ1:7)である。
Ⅱ.どのようにして注がれたのか。
 ペテロは「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせた」(24)と、聖霊の降臨とキリストの十字架と復活との関連性について述べる。その根拠として詩篇16篇や110篇を引用している。その際注目すべきことは、この預言はダビデ自身のことではなく、「キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』」(31)とキリストの復活に焦点を当て、さらに「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」(33)と語っていることである。このように聖霊はキリストの十字架と復活を経て我らに注がれたのである。
Ⅲ.主の霊が注がれた結果は何か。
聖霊の降臨によってどのような結果が生じたのか。一つは聖霊に満たされた人々はいろいろな言語で福音を語ったこと、二つはそれを聞いた人々は悔い改め、イエス・キリストを信じ救われたことである。こうして新約の教会が誕生し、今日に至っている。聖霊の注ぎはペンテコステの日だけで良いのではない。我々も聖霊の注ぎに与らなくてはならない。
聖書は聖霊に満たされた者は「預言をし、幻を見、夢を見る」こと、また「主の名を呼び求める者は、みな救われる」ことを約束している。
 福音宣教という使命(ミッション)、教会形成という目標(ビジョン)、福音の為にはどんなことでもするという方策(ストラトジー)をしっかり捉えて、キリストに従う者とならせて頂こうではないか。