聖 書:Ⅱペテロ3章8節~13節

(8) 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。(9) ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(10) しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。(11) このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、(12) 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。(13) しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

 再臨の教理は聖書の重要な教えである。新約聖書では300百回以上、25節に1回の割合で語られている。マタイ24,25章、マルコ13章、ルカ21章、Ⅱペテロ3章などでは全章が、Ⅰ、Ⅱテサロニケ、黙示録では全書で再臨を取り扱っている。使徒ペテロはこの3章で3回(1,8,14)、「愛する者たちよ」と呼びかけ、再臨に関して信徒の注意を喚起している。第一は「記憶を呼び起し」(1)、第二は「この一事を忘れてはならない」(8)、第三は「神のみまえに出られるように励みなさい」(14)である。今朝は第二点について考えてみる。ここでのテーマは「この一事を忘れてはならない」である。
Ⅰ.神の慈愛と忍耐 (8~9)
 当時の教会は使徒たちの信仰を忘れただけでなく、「主の来臨はどうなったのか」とあざけり、堕落しきった生活をしていた。そこでペテロは「この一事を忘れてはならない」と警告した。「一日は千年のようであり、千年は一日のようである」とは、時空を超えた神の感覚と我らの感覚とは本質的に違うことを言ったものであろう。神は決して約束を遅くしておられるのではない。その背後には一人も滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望んでおられる、神の慈愛と忍耐があることを決して忘れてはならない。
Ⅱ.主の日の突然の到来 (10)
 主の忍耐がいつまで続くのかは分からない。ただ聖書は「主の日は盗人のように襲って来る」と教えている。「盗人のように」とは、予告もなく,前ぶれなくやって来るという意味である。その時「天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされる」のである。ノアの時もそうであったように、主の再臨の時にも、「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう」(マタイ24:37-41)。「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」(マタイ25:13)。我らはこのことを忘れてはならない。
Ⅲ.再臨促進の生活 (11~13)
 3章12節は、新改訳は「その日の来るのを早めなければなりません」、新共同訳は「それが来るのを早めるようにすべきです」、文語訳は「これを速やかにせんことを勉むべきにあらずや」と訳している。再臨を早めるとはとんでもないことだ、と思われるかも知れないが、聖書は再臨促進の信仰について教えている。それは「きよく信心深い行い」(12)であり、「神のみまえに出られるように励む」(3:14)ことである。そのことについてペテロは「努めて祈りなさい」(Ⅰペテロ4:7)、「互の愛を熱く保ちなさい」(4:8)、「賜物を役立てるべき」(4:10)であると教えている。我らはこのような信仰を神から期待されていることを忘れてはならない。
「万物の終りが近づいている」(Ⅰペテロ4:7)。再臨直前の時代に生かされている我らはこれを促進させる栄光が与えられている。「この一事を忘れてはならない」の教えに従って、義の住む新天新地を待ち望みましょう。