聖 書:ヨハネ12章20節~26節  

(20) 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。(21) 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。(22) ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。(23) すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。(24) よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(25) 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(26) もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

 本田弘慈の半生を描いたビデオに「一粒の麦、地に落ちて」がある。その紹介文には次のように記されている。
 昭和20年8月15日終戦。兵役を終え、神戸に戻った本田弘慈は靴直しを始めた。戦時中、軍隊で見よう見真似で覚えたことが思わぬ生計の糧となった.靴底を叩く父親のそばに坐っていた長男献一は、咳くように言った。「お父ちゃん、おなかがすいた。」ふっくらとした可愛い子どもだった。「本田くん、この子は肥っているんじゃないよ。どこか具合いが悪いんだよ。」と友人に言われ、子どもを連れて医者を訪ねた。小児結核だった。手当ての甲斐なく3才になったばかりの献一は、静かに息をひきとった。小さな棺に手を置き、弘慈は男泣きに泣いた。「献―!お父ちゃんの仕事は靴直しじゃなかったんだよ。牧師だったんだよ。」弘慈は悲しみの中で神の語りかけを聞いた。「あなたは出て行って福音を宣べ伝えよ。」
 長男献一の死は、文字通り”一粒の麦〝となり、大衆巡回伝道者、本田弘慈の再献身のときとなった。
Ⅰ.地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶ。
 主イエスは「人の子が栄光を受ける時がきた」(23)と言われた。それはキリストの最期が迫っていることを意味していた。そうとは知らない民衆はイエスの名声を聞いて面会を申し出た。そうした状況の中で「一粒の麦」の話をされたのである。これは自然界、特に農業の常識である。これは単なる農作業の話ではない。ここで言われている「一粒の麦」とはキリスト、「地に落ちて死ななければ」とはキリストの死、「多くの実を結ぶ」とはキリストの復活とそれに伴う多くの人々の救いを意味している。
Ⅱ.命を愛する者は失い、命を憎む者は永遠の命を得る。
 主イエスはキリストを信じる人々にも同様な生き方を求めておられる。「自分の命を愛する」とは、この地上の命に執着すること、「憎む」とは反対に淡泊であることを意味している。日常生活において、獲得しようとすれば失い、手放せば得るということは良くあることである。信仰者とは自己の力ではなく、すべてを神にお任せして、神のみを信頼して生きる者である。
Ⅲ.主に仕え従う者は、主のおる所におる。
キリストを信じる信仰者の生涯は、素晴らしい栄光に満ちたものである。キリスト者とは、キリストに仕え、キリストに従う者である。それはキリストのように考え、思い、歩み、そしてすべてにおいて倣う者である。それは言うに易く、行うに難いものである。その秘訣は「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)である。
お互い、「一粒の麦」となって、多くの実を結ぶ者となろう。