聖 書:ヘブル11章13節~16節

(13) これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(14) そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。(15) もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。(16) しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

 
 1951年にアメリカミズリー州のルーテル教会は「クリスチャン家庭憲法」を作成し、広範囲に配布した。
「神がわたしたちの家庭を作ってくださった。わたしたちはお互いを必要とし、わたしたちはお互いを愛し、わたしたちはお互いをゆるす 。わたしたちは共に働き、わたしたちは共に遊び、わたしたちは共に礼拝する。わたしたちは共に神のみことばを生かす。わたしたちは共に キリストにあって成長し、わたしたちは共にすべての人を愛し、わたしたちは共にわたしたちの神に仕え、わたしたちは共に天をのぞむ。こ れがわたしたちののぞみと理想だ。おお、神よ、わたしたちを助けて、これを達成させたまえ。イエス・キリスト、わたしたちの主にあって。 」
聖書は「彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」と記している。ウイルクスは「ヘブルの国立画廊」と呼んでい る。

Ⅰ.霊魂のふるさと

 国立画廊の人々はみな「信仰をいだいて死んだ」(13)信仰の勇者たちであった。彼らは幾多の困難を乗り越え、この世の悪の力に負けずに 、勝利の生涯を送った。その秘訣は、彼らの心が常に天の故郷に向けられていたからである。アウグスティヌスは「人は神に向かって造られ たので、神の懐に帰るまでは、真の安らぎを得ることはできない」と言った。石川啄木はこよなく故郷を愛した詩人であった。彼は肺結核で 27才の若さでこの世を去るが、彼を力づけ励ましたのは故郷であった。「ふるさとの山に向かって言う事なし/ふるさとの山は/ありがたき かな」(一握の砂)。
Ⅱ.帰るべきふるさと
 アブラハムはカルデヤのウルを出てカナンに向かった。イスラエル民族はエジプトを出て40年の流浪の末にカナンに帰った。その間様々な 艱難辛苦に襲われ、その気になれば帰る機会はあった。しかし彼らはそうはしなかった。それは真に帰るべき故郷を望んでいたからである。 室生犀星(むろおさいせい)は、60才の父親と20才になるかならないかの女中の間に生まれ、間もなく捨てられた子であった。「ふるさとは/ 遠きにありて/思うもの/そして悲しくうたふもの・・・」と切ない胸のうちを歌っている。「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:20)。
Ⅲ.神が用意されたふるさと
 ふるさとは決して蜃気楼のような不確かなものではない。神は信じる者に報いられるお方であり、都を用意されるお方である。キリストは 「あなたがたのために、場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)と言われ、十字架の道に進んで行かれた。主はご自身の尊い血をもってふるさと を用意してくださったのである。これほど確かなふるさとはない。
 先に天に移られた愛する人々を偲ぶと共に、我らもまた「共に天をのぞむ」者となり、勝利ある人生を送る者とならせて頂こうではないか 。