聖 書:ヨハネ13章1節~11節

(1) 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。(2) 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、(3) イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、(4) 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、(5) それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。(6) こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。(7) イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。(8) ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。(9) シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。(10) イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。(11) イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。

 
 浜松市にある聖隷福祉事業団は長谷川保によって創設されたわが国最大の社会福祉法人である。昭和の初期、ある父親が長谷川を尋ね、「この子は私の息子の昇次ですが、肺病を患っています。事情があって自分の家に置くことができません。住まいを捜して転々としましたがどこも半月ほどで追い出されて来ました。この子の五尺のからだを天地の間に入れてやるところがないのですわ・・・」と言って嗚咽した。長谷川はキリスト者として放置することができずに、ついに昇次を引き取った。これが聖隷福祉事業団の始まりとなった。事業団のモットーは「聖なる奴隷」の姿である。
 本日のテキストは「洗足の模範」として有名な所である。キリストは言葉だけでなく、「手本」(15)を示されたのである。
Ⅰ.愛の模範
 キリストの教えは愛であり、キリスト教は愛の宗教である。そして何よりも聖書が示す神の本質は愛である。キリストは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられた。イエスの洗足の行為は十字架を目前にした状況下で行われた。しかも悪魔にそそのかされたユダの手引きで行われたと言うことはイエスにとって何という大きな痛手であったことか。
 イエスはこうした状況下にあっても、自らの立場と特権をしっかりと見つめることによって勝利を収められたのである。
Ⅱ.謙遜の模範
 洗足の行為は当時の社会にあっては奴隷のする仕事であった。人体のうちで足は最も汚れた部分である。こうした行為は高位な身分に対して行うものであって、その反対はあり得ない。ペテロが否むのも当然である。イエスの行為は例外中の例外である。ここでイエスは徹底した謙遜の模範を示された。神の子なるお方が、奴隷の身分となって弟子たちの足を洗われた。まさしく聖なる奴隷となられたのである。我らもまた「互に足を洗い合うべきである」(14)というイエスの言葉を受けとめる者となりたい。
Ⅲ.きよめの模範
 この洗足の行為は、愛の表現、霊魂のきよめ、裏切り者の除外という三つの意図があった。洗足する者が汚れていては用を足すことはできない。それは肉体においても霊魂においても同様である。「心から願うのは・・・主のようにきよくしてください」(新聖歌382)。バックストンの偉大さはきよめを説いただけでなく、きよめを見せた点であった。流れの小石の表面はいつもつるつるしている。きよめられた生涯の秘訣はイエス・キリストに結びついていることである。 
イエスは洗足の行為を通して「互に足を洗い合うべきである」と教えられた。お互いもまた聖なる奴隷となって神と人に仕える者となりたい。