聖 書:ヨハネ14章7節~17節
(7) もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。(8) ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。(9) イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。(10) わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。(11) わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。(12) よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。(13) わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(14) 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。(15) もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。(16) わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。(17) それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
キリスト教には多くの異端が存在することは歴史が証しするところであります。いつの時代にあっても異端の教理の核心部分は三位一体の否定です。確かにキリスト教には一般の論理では説明することの出来ない教理があります。その最たるものはキリストの処女降誕と復活、そして三位一体の教理でありましょう。
Ⅰ.神を見たいという欲求(7~9)
イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(6)と言われた時、ピリポは「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」(8)と訴えました。絵に描いた餅を見ただけでは、満腹になることはありません。同じように、神や真理や命についていくら説明しても、だれも神を理解することができないばかりか、その人の人生を豊かにすることはできません。
イエスはピリポの訴えに対して「わたしを見た者は、父を見たのである」(9)と大胆に答えられました。その背後には「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(11)と言う確信があられたからに他なりません。
Ⅱ.神を信じる者の祝福 (10~14)
次にイエスは「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」(12)と言われました。そのわざとは神に対する祈りであります。イエスは「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」(13)と約束して下さっています。私たちはキリストを通して神と交わることができます。具体的にはキリストの贖いによってであります。私たちの祈りが捧げられて、その祈りが叶えられれば叶えられるほど父なる神は栄光をお受けになるのです。ですから祈りは神の戒めであるのです。祈りは捧げても捧げなくても良いというものではなく、常に、どんなことでも、大胆に捧げられなくてはなりません。ここにキリスト者の祝福の源があります。
Ⅲ.助け主なる聖霊 (15~17)
イエスは「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」(16)と約束されました。聖霊はイエス・キリストの贖いが成就されたことを受けてお降りになりました。聖霊はキリストの霊であって、「助け主」とも「真理の御霊」とも呼ばれています。このお方は三位一体のおひと方であって、信じる者と共に、また信じる者の内に存在されるお方であります。このお方をどれ程の現実感をもって受けとめるかと言うことが、勝利あるキリスト者の決め手となるのです。
父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神は、三つにいましておひと方なる神であります。ここにキリスト教の奥深さと家族的な豊かな愛の交わりの標本を見ることができるのです。