聖 書:マタイ9章1節~8節  

(1) さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。(2) すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。(3) すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。(4) イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。(5) あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。(6) しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。(7) すると彼は起きあがり、家に帰って行った。(8) 群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。

 
今日のテキストは「中風の者の癒し」がテーマです。(マルコ2:3-12、ルカ5:18-26、参照)。病気の癒しを求めてきた者に対して主イエスは「罪の赦し」という霊的な癒しを提供されました。人々は主イエスが神の権威を乱用したとしてイエスを非難しました。主イエスは「罪の赦し」を「中風の癒し」にすり替えたのではありません。「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と命じ、病気を癒しておられます。ここに病気の原因が霊的な罪に起因していることを教えています。たとえ健康体であったとしても、赦されなくてはならない罪が存在していることを聖書は教えています。
Ⅰ.救いの意味
 聖書は「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と教えています。「救い」という言葉には、「癒す、解放する、自由にする」という意味があります。「救いとは人間を捕らえて幸福を妨げているものから、人間を解放して、健康・自由・真実の幸福を与える」と定義づけることができます。したがって「人間を捕らえて幸福を妨げているものは何か」と言うことで救いの意味が異なってきます。聖書はそれは貧困・病気・無知・圧制などではなく罪であると教えています。つまり聖書における救いとは「罪の赦し」なのです。
Ⅱ.罪の意味
 聖書の教える罪は「的はずれ、あるべき場所からの逸脱」を意味しています。罪には法律上の罪、道徳上罪、霊的な罪などが考えらます。大雑把に言って法律上の罪は肉体が、道徳上の罪は精神が、そして霊的な罪は霊魂と深く関わっています。聖書が罪という場合、それは基本的には霊的な罪であって神に対する罪を意味しています。そこには二つの要素があります。一つは神を信じないという不信仰、もう一つは偽りの神を信じると言う偶像礼拝です。こうした罪に対して大きな神の裁きが下るのです。
Ⅲ.罪の赦し
 罪の赦しとは良心の呵責からの解放、心の変化を意味しています。ダビデは「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」(詩篇32:1)と述べています。使徒信条には「罪のゆるし」を救いの代表として記されています。「罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ1:18)。「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」(詩篇103:12)。「われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ」(ミカ7:19)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した」(イザヤ44:22)「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31:34)。この恵みを「罪のゆるしの福音」(使徒13:38)と呼ぶのです。
 
 何と言う素晴らしい神の恵みでしょうか。この罪の赦しの体験が信仰生涯の基盤であると共に、生き生きとした生涯の活力となります。