聖 書:ヨハネ1章9節~13節

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。  

 関西聖書神学校の二代目校長であった向後昇太郎師は色紙にユニークな書と絵を描いた人でした。その一枚に、鼠の親子の絵に添えて「親子はいいな、鼠の親子でも」があります。見る者の心に何とも言えない、ほのぼのとした温かさを与える色紙です。
聖書は「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1:12)と教えています。「神の子」という中に家族の一員としての豊かさが見られます。今日は「救いの恵み」の二回目として「神の子となる特権」を取り上げます。
Ⅰ.神の子の性質
 新約聖書は「神の子」という言葉を二つの意味で使用しています。単数形の場合は「アダム」(ルカ3:38)を指す以外はすべてイエス・キリストを指しています。この場合はイエス・キリストの神性を表しています。複数形の場合はキリストを信じる者、つまり私たちを指しています。ウエスレアン神学事典は「信者が恩寵により信仰によって霊的な神の家族に入れられる間柄を表している。キリストが神の子でいますということは、彼の本質的な、永遠の性質を語るが、我らが神の子であるということは養子とせられ、生まれ変わらせられる神の賜物であるが、我々の被造物としての性質が変えられるということではない。」(P94)と説明しています。
Ⅱ.神の子の条件
 キリスト教信仰は徹底して恵みの世界です。そこには僅かな人間の義の行為でさえも立ち入る隙間はありません。神の子となる場合も決して例外ではありません。「血すじによらず」とありますが、原文は「血」(ハイマタ)です。新共同訳や新改訳は「血よってではなく」と訳しています。神の子とされることは、新しい命に与ることに他ならないので、出産を連想させる「血」が用いられたと解釈されています。「血すじ」(血統)と考えても問題はありません。「肉の欲によらず、また人の欲にもよらず」も同じことであって、人間的な要因は全く関係なく、ただただ「神によって」生まれた、ということが主張されているのです。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ2:8)とある通りです。
Ⅲ.神の子の特質
聖書は神の子の特質として ①「平和をつくり出す人」(マタイ5:9)、②「傷のない神の子」(ピリピ2:15)、③「御霊に導かれている者」(ローマ8:14)、④「復活にあずかる」(ルカ20:36)などを上げています。神の子となることは神の家族の一員となることですから、私たちはその特権に相応しい者となることが求められています。
現代は家族崩壊の危機にさらされています。人間的な要因ではなく、神によって生み出された信仰による家族関係こそが、この危機を乗り越える大きな力であることを信じています。