聖書:ローマ 5:6-11

6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。

 神の愛は、抽象的な、概念的な、観念的なものではありません。なんとなくわかるというようなものではないのです。空想の世界のものではなく、歴史的な事実として見ようと思えば、誰でも見えるかたちで、はっきりと神様は、その愛を表してくださいました。
1.人が示す愛
 人が誰かのために死ぬということは、なかなか簡単にできるものではありません。道徳的に正しい生き方をしているという人のために 死ぬということはしません。情け深い人に何か恩義を受けたという人は、その人のために何か恩を返したいと思うことでしょう。しかし、その人のために命を投げ出して死ぬということは、非常にまれなのです。人の愛は、変化しやすいもの、気まぐれなものです。相手が、どのようであろうと変わりなく愛を示し続けるのは、まことに困難なことです。
2.神が示される愛
 ところがイエス様が表してくださった愛は、人がどんなときであったかというと、①弱かったとき、②不信心なとき、③罪びとであったとき、④敵であったときに、その愛を現してくださったのです。それも十字架による死によって現してくださいました。この地上では、考えられないことです。おそらくこのようなことをすれば、周囲のものはあざ笑い、そのような行為は全く無駄だ、無意味だと決めつけることでしょう。人々は、救いを求めたわけでも、神を心から信じていたわけでもありませんでした。しかし、神の愛は、そのような人間の側の状態に左右されるような愛ではないのです。
 
 この愛を知って、自分の罪を悔い改めるとき、キリストのいのちにあずかるものとされます。それは、日々そのいのちによって、罪から救われ、永遠のさばきから開放されるのです。私たちと神との間にあった罪による隔てがなくなり、和解の恵みが与えられるのです。そして、私たちはこのお方を日々喜ぶものへと変えられるのです。