聖 書:創世記 18章16節~26節

(16) その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。(17) 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。(18) アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。(19)わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。(20) 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、(21) わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。(22) その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。(23) アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。(24) たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。(25) 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。(26) 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。  

 世界の平和の為に努力してきた個人や団体に毎年ノーベル平和賞を授与する。私達クリスチャンは、その働きの内容からすればノーベル賞以上の役割を神様から求められる。神様は聖なる信仰者を通して神の平和を世界にもたらす。信仰の先祖アブラハムは神の平和を求めた人でもある。彼はソドムの為に執り成しの祈りを捧げた。私達は信仰によるアブラハムの子孫なのでアブラハムと同じ働きをしなければならない。神様の平和が世界に広がるように祈ることである。今日はアブラハムがソドムの為に捧げた執り成しの祈りの意味を考えてみたいと思う。
1.神様がお立てになる人
 アブラハムは平和を実現する為に神様がお立てになった器である。18節を見ると「大きな強い国民となって・・彼によって祝福を受けるのではないか」。「神の祝福=神の平和」。神様はアブラハムの執り成しの祈りはお聞きになる。その為にわざとアブラハムに大事な情報を流したわけである。彼は神の平和の為に祈れる唯一の人である。旧約の聖書を見ると神様と親しかった人々はアブラハムのような役割を担う。代表的な人がモーセである。民の罪の赦しを求めて、神と民の和解の為に命を掛けて祈った。「今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば・・・しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」(出エジプト32:32)。私達も同じ位置に立っている。私達は神様の平和が日本で実現するように祈れる唯一の1%である。私達が祈らないと日本に神様の平和はない。私達にはこのような役割が求められている。
2.自ら実践する人
 神の平和を作り出す方法は祈ることと自ら実践することである。ただ祈るだけは簡単かも知れない。本当の神の平和は自分を犠牲することから始まる。アブラハムはソドムとゴモラの為に祈った。その祈りは親戚、ロトの為の祈りでもある。ロトとアブラハムは親戚であるが、しかし、土地が狭いという理由で別れた。ところで、ロトはアブラハムに悪かった。東と西を選択するとき、選択権をアブラハムに先に譲らなかった。ロトが先に良さそうに見えるソドムを選んだ。だが、アブラハムは最後までロトを愛した。ある時はロト全家族を救ったこともある。戦争の捕虜になっていたロトの家族を救った。アブラハムはロトにとって親戚以前に命の恩人である。そのロトの為、もう一度祈る。誰の為に心を込めて祈れることはその相手を赦さないと本気で祈ることは出来ない。アブラハムがロトの為、心を込めて祈れることは、赦しなしには出来ないことである。アブラハムは恩知らずロトを赦して、もう一度救いの為に祈った。平和の為に祈る人は自分自身の犠牲に基づいて祈るのである。
 私達の役割は神様の平和をもたらす執り成しの祈りを捧げることだが、祈れない妨げはないのか?神様に助けを求めよう。神の平和をもたらすクリスチャンになれるように。