聖 書:ローマ3章9節~20節

(9) すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。(10) 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。(11) 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。(12) すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。(13) 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、(14) 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。(15) 彼らの足は、血を流すのに速く、(16) 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。(17) そして、彼らは平和の道を知らない。(18) 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。(19) さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。(20) なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 
 私はかつて友人と一緒にヨットに乗った際、最初は調子よく進んで行ったのですが、やがてヨットは右左に大きく揺れ、今にも転覆しそうになりました。それを浜で見ていた係員が大きな声で叫び、別な舟で助けに来てくれました。私たち4人はだれかが操縦できると思っていたのですが、実は誰もできなかったのです。今思い出してもぞっとするような怖い経験でした。
Ⅰ.人間は罪人です。
 聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)と教えています。欧米は罪の文化、日本は恥の文化であると言われます。ですから日本人は罪に対する理解が乏しいのです。
 1.原則的 聖書が教える罪には原罪と犯罪があります。原罪とはアダムとエバが犯した罪、全ての人に存在する罪、単数の罪です。犯罪とは個人が犯す罪、多くの人に存在する罪、複数の罪です。
 2.構造的罪は、法律上の罪、道徳上の罪、信仰上の罪として考えられます。この三つは、「霊と心とからだ」(Ⅰテサロニケ5:23)と深い関係があります。からだは法律上の罪(対人)、心は道徳上の罪(対自己)、霊は信仰上の罪(対神)と関係しているのです。
3.実際的
 罪は、不法(Ⅰヨハネ3:4)、不善(ヤコブ4:17)、悪意(箴言24:9)、暴言(マタイ12:37)です。ローマ1:29-32やガラテヤ5:19-21のどに詳細に罪の目録が記されています。聖書が教えるのは霊的な罪、神に対する罪です。表面は真の神を信じない不信仰であり、裏面は偽りの神を信じる偶像礼拝です。
 たとえ一日に三つしか罪を犯さなかったとしても、一生の間には多くの罪を犯したことになります。聖書は「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と教えています。
Ⅱ.自分で自分を救えません。
負債のある人が他人の保証をすることはできません。泳げない人が溺れている人を助けることができません。ましてや溺れている人が自身で自分を陸に引き上げることができるでしょうか。
私たちは5個の良いたまごと1個の腐ったたまごでオムレツを作ったとしましょう。私たちはそれを人前に出すことができるでしょうか。聖書は「律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである」(ヤコブ2:10)と教えています。
現代わが国において、神を畏れない偽りの行為が政治、経済、産業、教育などの各層において公然と行われていること
に大きな恐れを感じます。
これで人は自分で自分を救えないことがお分かりになった思います。
つなぎの言葉「聖書が神について何と言っているかをみると、さらに明確になります」。共に神を畏れ、愛と希望に満
ちた人生を歩ませて頂きましょう。