聖 書:ヨハネ6章47節~58節

(47) よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。(48) わたしは命のパンである。(49) あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。(50) しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。(51) わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。(52) そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。(53) イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。(54) わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。(55) わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。(56) わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。(57) 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。(58) 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。

 ヨハネ6章には「天からのパン」、「神のパン」、「命のパン」、「天から下ってきたパン」、「生きたパン」など意味がよく分からない文学表現が多いし、「イエス様の肉と血を食べて、飲む」と言うきつい表現もある。ヨハネはなぜ「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」と言う独特の表現をそのまま記したのか?その理由は福音の中心だからである。五つのパンと二匹の魚は福音の一番重要な内容を説明するためにヨハネが選択したいくつかの奇跡物語の一つである。ヨハネ6章には私達が信じているキリスト教の中心がある。今日は単純な食べ物の話から広がる意味深い福音の真理を考えてみたいのである。
Ⅰ.マナ
 マナに関してユダヤ人は「天よりのパン」だと素晴らしい評価をしたが、イエス様は「マナを食べたが死んだ」と厳しい評価をなさった。マナは神様からの恵みの食料だったが、しかし、民はマナを与えて下さる神様に注目するのではなくて、マナ自体に気を取られてしまった。罪深い人の心は神様に従うことよりマナに執着しやすい弱さを持っている。マナを降らして下さる神様の恵みを黙想して、感謝する時間を過ごすはずだったのに、彼らは逆に明日の不安で心配の時間を長く過ごしてしまった。その結果、彼らの不信仰が霊の目を暗くしてしまった。神様への信頼関係が切れてしまった。神様からの恵みが見えなくなった。恵みの手段であるマナが神様への不平不満の種に変わった。
 私達の心の中にも神様に注目するのではなくて、神様が持っている「現代のマナ」だけを求める罪の性質がある。私達の目は神様だけ注目したいが、心にある罪は常に神様の手にある「現代のマナ」に連れて行く。「現代のマナ」は良いものだが、私達の心から罪を駆除出来る力はない。それが出来るのは命のパンだけである。
Ⅱ.命のパン 
イエス様の十字架である肉と血を食べ物にたとえたのは素晴らしい例話である。食べ物の役割は現在の体の状態を維持することだ。食べ物が栄養分に変わって体を維持させる。体と罪の状態をしばらく維持する。しかし、天からのマナを食べても死しかない。だが、イエス様の肉と血は罪の状態をそのまま維持させるのではなくて、逆にその性質を断ち切るのである。イエス様の肉と血を食べて、飲んだ人(信じた人)は現在の罪の状態が維持出来なくなる。イエス様の肉と血が人間の罪を飲み込み、その人を聖なる者として、主の体として替えて行くからである。福音とは、人間が持っているものでは全くリサイクル不可能なので、イエス様の肉と血によって全部取り替えることである。これがキリスト教である。
結論
 私達はイエス様を受け入れ、私の全てを取り替えたい。私が企んでいる朽ちるべき小さい幸せから、計り知れない永遠の神様の喜びと幸せに取り替えたいのである。