聖 書:イザヤ43章18節~21節

(18) 「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。(19) 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。(20) 野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。(21) この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。

1、過去の栄光に甘んじるな
 時代は、世界は、刻々と変化している。モーセにより、エジプトから約束の地に導かれたイスラエル。乳と蜜の流れる地を得て、国となり、繁栄を味わったが、世界は大国が台頭し、状況が大きく変わっていた。イスラエルが栄光に与り、恵みをいただいたのには理由があり、神の目的があった。
 「あなたは祝福の基となる‥‥。地のすべてのやからはあなたによって祝福される。」(創世記12:2-3)。イスラエルが自分に与えられたこの使命を果たすのに最善の環境が整えられつつあった。しかし、彼らは、エジプトから救い出されたと言う過去の栄光に甘んじ、選民であると言うおごりに固執し、神から与えられた使命を軽んじていた。同時に大国に飲み込まれる危機に瀕していたにもかかわらず、何があっても神が守ってくださるので大丈夫だと思い込んでいたのである。神は、預言者イザヤにより、「先の事を思い出してはならない。いにしえのことを考えてはならない。」と語り、過去の栄光、昔の恵みにしがみつくなと言われた。言い換えれば、不信仰と不従順を悔い改め、危機をチャンスに変えるように命じられた。
2、主イエスは新しい事をなさった 
 見よ、わたしは新しい事をなす。やがて、それは起こる。神の恵みは朝ごとに新しい。神は、ご計画を持って世界を導いておられる。イスラエルが与えられた使命を果たせなくても神のご計画は進む。新しい事とは何か。荒野に道が設けられる。荒野には道がないから人は迷って死ぬ。砂漠に川を流れさせる。砂漠には水がないから人は乾いて死ぬ。神は、荒野に道を設けるように、人に命の道を与えられ、砂漠に川を流れさせるように、人に命の水を与えられる。神の選ばれた人々に、飲ませ、神の栄光を褒め称えさせる。神の選ばれた人とは、イスラエルであろうか。彼らが悔い改めて、使命に目覚めればこの約束は彼らのものとなったことであろう。しかし、残念ながらイスラエルは、悔い改めて新しいわざに備えず、大国アッシリア、バビロンに飲み込まれて、国を失う。新しい事、それは、イスラエルの果たしえなかった使命を帯びておいでになられたメシヤ、イエス・キリストによって実現したのである。主イエスは道であり、真理であり、命として来られた。彼を信じるものは命の水を飲んだ。そして、その腹から生ける水が川となって流れ出ると約束された。今、イザヤの語った預言は成就し、わたしたちは新しい事を見、聞き、経験するものとなった。
3、新しい事に期待する 
 預言者を通して語られた神のことばは、とこしえのものであり、今も新しい。神は過去の栄光、昔の恵みにしがみつくなと言われた。十字架に死なれたイエス・キリストは復活され、昇天され、今も生きておられる。十字架に死なれた主のみを意識するのでなく、生きておられる主が我らの主であると意識し、新しい事に期待したい。教会においても、過去の歴史、過去いただいた数々の恵みに固執するのでなく、新しい事に期待したい。主イエスは、「右の手に七つの星を持ち、七つの金の燭台の間を歩いておられる。」(黙示録2:1)。わたしたちに与えられた使命とはなんだろうか。教会に与えられた使命は、世界に神の愛をあらわし、人々を救いに導くことではないか。時代は世界の終わりの様相を示している。
 マタイ24章3節~14節の世の終わりの前兆はすべてそろっている。イスラエルのように使命を見失ってはならない。今こそ、新しい事をなすと言われる主に、信仰と従順をもって、注目してゆきたい。