聖 書: ピリピ1:1~17

(1)キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。(2) わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(3) わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、(4)あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、(5) あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。(6) そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。(7) わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。(8) わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。(9) わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、(10) それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、(11) イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。(12) さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。(13) すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、(14) そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。(15) 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。(16) 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、(17) 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。

 ピリピ人への手紙は、パウロが、ローマ獄中からピリピの信徒たちへ書いた「遺言」です。パウロが「マケドニヤの叫び」(使徒16:9)を聞いて、ヨーロッパに渡り、最初に伝道した町がピリピです。パウロの伝道は祝されて、紫布の商人ルデア、獄吏の家族が救われ、ピリピ教会が設立されました(使徒16:11-34)。ピリピ教会は恵まれた活気あふれる教会となり、パウロがピリピを離れた後も、パウロの伝道を支援して、パウロとの主にある愛の交わりが続けられていました。
ピリピ教会の設立から約10年後、パウロはローマの獄中にいました。ピリピ教会はパウロの安否を心配し、エパフロデトを派遣しました。しかし、そのエパフロデトがローマで瀕死の病気になってしまい、パウロは彼をピリピに帰しました。その時に持たせた手紙がこのピリピ人への手紙です(ピリピ2:25-30)。
この手紙は、特にパウロ自身の証と、主にある熱い心情が吐露されています。パウロは処刑を待つ身でありながら、主にある「喜び」に満ちあふれているのです。
Ⅰ.福音にあずかっていることを感謝 (5)
「あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(4-6)。
 「最初の日」は、ピリピに福音が伝えられた日、主イエスを信じた日のことです。「今日」は、この手紙がピリピの教会で読まれている日、パウロが獄中にいる日のことです。「キリスト・イエスの日」とは、再臨の日、教会完成の日です。パウロは自分が処刑されようと、教会が迫害の波に飲み込まれようと、ピリピ教会が福音にあずかり、福音が拡大し、主のわざが完成することを「確信している」(6)のです。
 パウロは、ピリピの信徒たちの将来の苦難を予見しつつ、「何が重要であるか判断することができ」(10)るように、そして「キリストの日」(10)という目標を失わないようにと、祈っています。人は困難に会う時、恐れによって心が萎縮し、目標を失い、判断を誤るからです。
Ⅱ.わたしの身に起こった事 (12)
パウロの投獄は、つらく悲しい出来事です。パウロ自身の生命と健康が心配です。もし、パウロが処刑されたらと考えると、ピリピの教会だけではなく、初代教会の行く末はどうなるのか心配です。「神は、なぜこのような苦難を許されるのか、神にとっても決して得策ではないはずなのに」と神への不信すらも起こる状況です。
「わたしの身に起こった事」とは、有無を言わさず容赦なく巻き込まれてしまった状況に見えます。驚き、悲しみ、疑いの感情がわきあがります。しかし、「知ってもらいたい」(12)。そこには、人知を超える神のご計画があるのだと、パウロは確信しているのです。
 Ⅲ.福音の前進に役立つ (12)
パウロは、自分の投獄が「福音の前進に役立つようになったこと」をピリピの人に知ってもらいたかったのです。困難な状況に遭遇して、悲しみ、後悔し、座りこんでしまうこともあるでしょう。しかし、そこに「福音の前進」があるとしたら、そのことを喜べるのではないでしょうか。人の力ではなく、福音そのものが持っている神の力が、福音を前進させていくのです。自分の身に起こったことが福音の前進に役立つようになったとすれば、何という喜びでしょう。