聖 書:イザヤ40:27~31

(27) ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。(28) あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。(29) 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。(30) 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。(31) しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

 本日は待降節(アドベント)第一聖日です。教会暦における新年はこの日を
もって始まります。本日は「主を待ち望む者」という主題でお話しいたします。
 イザヤはBC740年~690年代に活動した預言者です。その預言の内容は非常にスケールが大きく、バビロン捕囚(BC586年)から故国帰還(BC539年)、或いはそれ以降にも及んでいます。本日のテキストは40:27~31迄ですが文脈的には40:1からの箇所も心に留めなくてはなりません。
Ⅰ.人間の弱さと神の強さ (27~28)
 ヤコブは「わが道は主に隠れている」(27)、イスラエルは「わが訴えは神に顧みられない」(27)と不平を漏らしています。人生には様々な試練や困難がつきまといます。勢いそうした不満や不平が愚痴となり、神に対する不信となってしまいます。聖書は「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ」(40:6b-8a)、「見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる」(40:15)と、人間の命のはかなさと弱さを教えています。聖書はそうした人間のはかなさと弱さと共に、「しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」(40:8b)、「見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる」(15b)、「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」(28)と創造神の強さを教えています。
Ⅱ.主を待ち望む者 (31a)
 自我の強かったヤコブは柔和な人に造りかえられイスラエルと呼ばれるようになりました。これは決して一個人の問題ではなく、すべての人にあてはまる問題です。聖書の記事は万民が共有すべき事柄なのです。そこに聖書の真の意味があります。イスラエルの不幸の理由は、神からの離反、神に対する不信でした。したがって、幸せな人生を送るためには、神との結合、神に対する信頼が不可欠なのです。多くの人(私自身も含めて)は「待つ」ことが苦手です。何か、遠い未来のことのように考えてしまうのです。そうではなく、この言葉は現実、現在のことを言っているのです。私たちにとって、今、必要なことは、〈人に望みと信頼とをおく者〉から〈神に望みと信頼とをおく者〉とされることです。
Ⅲ.わしのように翼をはって (29~31)
「主を待ち望む者は新たなる力を得」(31)ます。そして「わしのように翼をはって、のぼることができる」のです。鷲は上昇気流に乗ることに長けた鳥だと言われています。つまり自力ではなく、他力でもって大空高く舞い上がるのです。キリスト教信仰は自分の頑張りや力ではなく、創造者なる神を信頼して歩むものです。そうすることによって「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(31b)日々を歩むことができるのです。
本日はキリスト降誕を四週間後に控えた「待降節」(アドベント)です。神が御子キリストとして降誕されたことによって、私たちは「主に望みをおく人」(新共同訳)に造り変えられることが可能となったのです。