聖 書:ピリピ3:7~16

(7) しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。(8) わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、(9) 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。(10) すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、(11) なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。(12)わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(13) 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、(14) 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。(15) だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。(16) ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

パウロは信仰生涯を陸上競技にたとえ、ゴールをめざして走っていると言っています(2:16,3:13,14,Ⅱテモテ4:7)。目標が見えていないと、人生のゴールに到達できません。2009年も終わろうとしている時、この1年間何をめざしてきたでしょうか。私たちは、価値観の多様な社会で、多忙な毎日に追い立てられています。主の御前で、何が残るでしょうか。
「ただこの一事を努めている」(13)とは、主イエス・キリストご自身のことです。パウロは、人がうらやむほどの「肉の頼み」(人間的なものを頼み)がありました。しかし、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思う」(8)ようになりました。キリストは、「多様な価値観の一つ」ではなく、「絶対唯一」のお方なのです。このキリストを追い求め、目標として歩んできたでしょうか。そうでないならば、ゴールが見えない無駄な無意味な人生となってしまいます。悪魔はいつも、主イエス・キリストご自身から目を離すように誘惑しているのです。キリストという焦点がぼやけて、散漫になってしまうと何も残らなくなってしまいます。しかし、私たちは、「キリスト・イエスによって捕えられているから」(12)、信頼して主にお従いすることができるのです。
1,キリスト者の救い - 信仰義認
「律法による自分の義ではなく」(9)とは、「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」ので、徹底的に自己の義に絶望し、自分の罪を認めることです(ローマ3:19-20)。パウロは自分のことを「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)と告白しています。だから、「キリストを信じる信仰による義」(9)「信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす」(9)ことだけが救いなのです。ただ、キリストの十字架の贖いの死によって救われ、他にはどこにも救いはないのです。福音を聞き、信仰によって義とされた「最初の日」(1:5)を忘れてはなりません。
2,キリスト者の成長 - 聖化
「キリストとその復活の力とを知り」(10)とは、キリストは死からよみがえり、今も、活けるお方です。そのキリストから「復活の力」(神の力)をいただくことができます。この世において、自らの弱さに打ちのめされ、世と悪魔の誘惑に翻弄されることが多いことです。しかし、苦しみや困難から逃げるのではなく、「その苦難」にあずかる生涯を送ることです。キリスト者の成長とは、キリストとの交わりが深められ、御心を知り、そして、キリストの苦難にあずかることです。成長し聖化されることは、ただ、活けるキリストを愛し、信じ、喜んで、お従いすることです。そのことをさせてくださるのは聖霊です。
3,キリスト者の完成 - 再臨・栄化
わたしたちの救い主イエス・キリストを、今、肉眼の目で見ることはできません。その意味で不完全です。しかし、キリストが天から迎えにこられ、わたしたちはキリストと同じ栄光の体に変えられて、顔と顔を合わせてお会いするのです(Ⅰヨハネ3:1-3、Ⅰコリント13:12-13)。「なんとかして死人のうらからの復活に達したい」(11)「完全な者」(12)「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与」(14)とは、キリストの再臨と、キリスト者の栄化のことです。キリスト者のゴールは、再臨のキリストにお出会いすることです。それが最高最大の希望です。
「ただこの一事を努めている」とは、キリスト・イエスを追い求め、目標として生き抜くことです。