聖 書:ピリピ4:2~7

(2) わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。(3) ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。(4) あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。(5) あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。(6) 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。(7) そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 「主は近い」は、他の翻訳では「主はすぐ近くにおられます」(新共同訳)、「主は近いのです」(新改訳)、「The Lord is coming soon.」(TEV)、「The Lord is at hand.」(NKJV)。「近い」とは、「主の再臨は近い」、「主は最も近い」、「主はどんな状況でも近い」という意味です。
 主イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架で死に、復活し、昇天され、今、神の右でわたしたちのためにとりなしておられます。わたしたちは主の再臨の時、栄光の体に変えられて、天に引き上げられるのを待ち望んでいます。主イエス・キリストは、生けるお方ですから、わたしたちは信頼と愛とをもって大胆に近づくことができるのです(ヘブル10:19-21)。
1,主にあって、一つ思いとなってほしい。
 パウロは彼の殉教後も、二人の婦人たちが仲違いのままだとすれば、教会の存亡にも関わると判断し、「ユウオデヤ」「スントケ」と実名で勧告をしました。仲違いは根深く、恩師の遺言でも解決しません。ただ、「主にあって、一つ思い」となることだけです。
 (1)「このふたりの女を助けてあげなさい」(3)。「助けてもらう」謙虚さを失ってはなりません。「真実な協力者」とは、キリストの真実に立つ人です(Ⅱテモテ2:12-13)。
 (2)「いのちの書」(黙示録20:12-14)に名を記されていることを忘れてはなりません。救われた喜びから神への奉仕が生まれます(ルカ10:20)。
 (3)「福音のために、共に戦う」ことを忘れてはなりません。パウロの殉教後、ピリピ教会の危機と初代キリスト教会への大迫害が待っているのです。敵は外にあり、「悪魔」なのです。「信仰の戦い」(1:27,30,Ⅰテモテ1:18-20,6:12,Ⅱテモテ2:1-7)から離脱してはなりません。
2,主にあっていつも喜んでいなさい。
 ピリピ人への手紙の「喜び」は、人間的な喜びとは違います。福音を伝える喜び(1:18)、信仰の前進の喜び(1:25)、主にある一致の喜び(2:2)、キリストにある殉教の喜び(2:17,18)、キリストの絶大な価値を知ることの喜び(3:1-8)です。「主は近い」ので、人間関係の中に主が入ってくださるので「寛容」(5)でいることができます。
3,キリスト・イエスにあって守るであろう。
 「主は近い」ので、遠慮することなく大胆に祈ることができます。もし、主が遠いならば、「思い煩い」(マタイ6:25-34)で心が占領されてしいます。「主は近い」ので、祈りが答えられるという確信から、「感謝」(6)の心に変わります。祈りの答えは、「人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安」です。周囲の状況や自分の計算から出てくるものではありません。生けるキリストは、神の平安で守ってくださるのです。「主は近い」、それは現実です。嵐のガリラヤ湖の上を歩かれた主イエスが、風を見て恐ろしくなり溺れかけたペテロに、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:22-33)と声をかけておられます。
 キリスト教信仰とは、「主は近い」ことを信じることです。