聖 書:ヘブル9:11~15

(11) しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、(12) かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。(13) もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、(14) 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。(15) それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。

 今週から受難週に入ります。キリストの十字架の救いを「血」と表現しています。体外に流された血のことで、罪のいけにえ(処罰)のために犠牲になった命のことです。「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」のです(9:22)。
わたしたちが救われた目的は、神に近づき、神を礼拝するためです。旧約の礼拝規定では、大祭司が年に一度、自分と民の贖いのために、動物の血をたずさえて神の臨在される至聖所に入り、贖罪所に血を注ぎました(出エジプト25:10-22,レビ16)。しかし、毎年、贖いの儀式は継続し、「儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない」のです(9)。外側の形ができても、心が変わらなかったのです。すばらしい厳かな礼拝に参加し感激しても、良心がきよめられ神に真心から礼拝をささげることがなければ、その礼拝は「死んだわざ」(14)です。神の前に出られないのです(8-9)。
だから、礼拝者の良心をきよめる礼拝の改革が必要なのです(10)。人間の側で礼拝規定を変えることなどできません。神は新しい契約を成就されました(8:13)。「キリストの血は、…わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」(14)。「…生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(新共同訳)。
Ⅰ.「キリストの血」による永遠のあがない(12)
 旧約時代は動物の血でしたが、新約の大祭司であるキリストは「ご自身の血」(12)によって、神の前に出てくださいました。主イエス・キリストの十字架、復活、昇天、高挙です(8:1-3)。「一度だけ」(12)の完全な贖いですから、神は「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを思い出すことはしない」(10:17)と、過去の罪の呵責から解放してくださいました。
神の御子の命の犠牲ですから、「永遠の贖い」です。主イエス・キリストは、永遠の大祭司として、永遠の救いを全うされました(7:28)。
Ⅱ.神にささげられた「キリストの血」(14)
 贖い主の資格は罪のない者です。聖霊は、わたしたちと同じ人となられたキリストを、罪を犯さずに完全に神に従う者として導きました。そして、その罪のないきよいキリストの血が「罪のいけにえ」として、神にささげられたのです(10:12,エペソ5:2)。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。キリストは「罪人」となり、罪の刑罰を受けて、神に捨てられたのです。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」(Ⅱコリント5:21)。
Ⅲ.「キリストの血」は生ける神に仕える者とする (14)
旧約時代の儀式では、良心をきよめることができませんでした。しかし、キリストの血はわたしたちの良心をきよめてくださいます。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(Ⅰヨハネ1:7)。キリストを罪のない生涯に導かれ、死人から復活させてた同じ聖霊が、わたしたちの心をきよめ、復活の命の力を与えてくださるのです(ローマ8:11)
そして、「死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者」と変えてくださいます。「キリストの血」は、罪人を真心から礼拝をささげる、生ける神に喜んで仕える者と変えてくださいました。