聖 書:Ⅰコリント13:8~13

(8) 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。(9) なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。(10) 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。(11) わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。(12) わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(13) このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 ある時主イエスはマルタとマリヤの家庭を訪問されました。姉のマルタは接待に当たっていましたが、妹のマリヤはイエス様の話を聞いていたのです。マルタはイエス様に向かって「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」(ルカ10:40)と不平を申しました。主イエスは「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはそのよい方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(同10:42)と言われました。
私たちの周囲には、あってもなくてもよいような物が溢れていますが、本当に必要な物は何でしょうか。聖書は「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と教えています。
Ⅰ.信仰
日本人は信心深い国民ですが、信仰深い国民とは言えません。この場合、信心とは「信じる対象より信じる心を重視する」こと、信仰とは「信じる心より信じる対象を重視する」ことを意味しています。いわゆる「鰯の頭も信心から」という訳です。それはアミニズム、精霊信仰の影響を強く受けているからに他なりません。そうしますと勢い絶対神に対する罪意識よりも、人様に対する恥意識が強くなります。神との関係よりも、人との関係が重視されることになります。それに反して聖書が「いつまでも存続するもの」としている「信仰」とは、天地を創造された唯一神に対する信仰であり、人となられた救主キリストに対する信仰でもあります。この信仰は人間存在の土台とも言うべき大切なものであります。
Ⅱ.希望
 信仰が建築物の「土台」であるとすれば、希望は「屋根」であると言えます。
屋根は上の方にあって目に見えませんが、屋根のない建物がないように、希望のない人生は全く考えることさえ出来ません。聖書は「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:3-4)と教えています。この希望は決して不確実なものではありません。キリストは、神であられましたが、人としてこの世に来られ、人の罪の身代わりとなって十字架に架かり、三日目に罪と死に打ち勝って復活されました。私たちの希望の根拠はここにあります。ですからこの世における様々な試練や患難をも喜んで耐えることができるのです。そしてこの「希望は失望に終ることはない」(同5:5)のです。
Ⅲ.愛
 信仰が建築物の土台であり、希望が屋根であるとすれば、愛は「住居部分」であります。土台と屋根は目に見えませんが住居部分は一番目に見えやすい部分です。
ですから聖書は「最も大いなるものは、愛である」、「神を愛せよ、隣り人を愛せよ」(マタイ22:37-39)、「山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」(Ⅰコリント13:2)と教えているのです。
キリスト教信仰は堅苦しい教理や形式ではなく、温かい愛の実践を重んじる教えです。神は全ての人を愛しておられます。私たち一人一人が愛の人に造りかえられるところから、すばらしい夫婦、家庭、社会が実現していくのです。
私たちの人生には「信仰と希望と愛」の三つが必需品です。あなたもこの三つのものをしっかり備蓄して、豊かな人生を歩まれることをお祈りいたします。