聖 書:ローマ6:1~14

(1)わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。(2) 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。(3) 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。(4) わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。(5) けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。(6) かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。(7) しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。(8) それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。(9) 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。(10) 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。(11) さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。(12) わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。(13) けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(14) 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである

パウロは、キリスト者になっても罪にとどまり続ける者に、「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」(1)という問いに対して、「断じてそうでいない」(2)と断固否定しました。
それは、キリスト者がキリストと結合され、罪に対して死に、罪の支配から完全に解き放たれていることを示しているのです。
Ⅰ,キリストと共に死に、キリストと共に生きる者
キリストを信じてバプテスマを受けた者は、キリストの死にあずかり、キリストと共に葬られ、新しいいのちに生きる者となっているのです(3、4)。
キリストの十字架の死は、彼お一人の死で終わったのではなく、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた」(6)のです。キリストの十字架の死の事実と結合し、古きわたしの死も事実となったのです。「すでに死んだ者は、罪から解放されている」(7)のです。罪のさばきの死は、一度だけです。死の後に再び罪を追求されることも、死んだ者が罪に支配されることもないのです。
死は、生きるためです。キリストの復活も、彼お一人の復活で終わったのではなく、わたしたちがキリストの復活の事実と結合し、聖霊による神よりの命に生かされるのです。
Ⅱ,罪に対して死んだ者、キリスト・イエスにあって神に生きる者
 罪に対して死んだ後は、復活された活けるキリストに結合し、神に生きる者となったのです。「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しない」(9)のです。キリストは、わたしたちの罪のために死にました。しかし、神の御力によって死人の中からよみがえらされ、死に勝利されたお方です。キリストは二度と死ぬことはなく、死はキリストを支配しない、いや、できないのです。そのキリストの死への勝利が、キリストに結合した者を、キリストと同じ死なない者とされたのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25,26)。
「あなたがた自身も…認むべきである」(11)とは、キリストの事実をわたしの事実と、神がなしてくださったことを信じることです。信仰とは、自分の状況や感情から出てくるのではなく、みことばによって啓示されたことを、そのまま受け取ることです。
Ⅲ,死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげる
キリストを死人の中からよみがえらせた神の栄光の力が、同じようにキリスト者に、今も、将来も、永遠に、働いているのです。キリスト者はこの世でどんなに罪にさらされていても、罪の支配に自分をゆだねることはしないのです。なぜなら、キリストの再臨の時、キリストと同じ栄光の体が与えられて、キリストにお出会いすることを待ち望んで生きているからです。