説教題:「私たちは孤児ではない」       中島秀一師
聖 書:ヨハネ14:18~24
 A新聞に「孤族の国」と題するルポが掲載されました。はじめに「単身世帯の急増と同時に、日本は超高齢化と多死の時代を迎える。それに格差、貧困が加わり、人々の『生』のあり方は、かつてないほど揺れ動いている。たとえ、家族がいたとしても、孤立は忍び寄る。個を求め、孤に向き合う。そんな私たちのことを『孤族』と呼びたい。家族から、『孤族』へ、新しい生き方と社会の仕組みを求めてさまよう、この国。『孤族』の時代が始まる」と記されています。その後東日本大震災が勃発して、私たちは否応なしに改めて「家族」と向き合わねばならなくなりました。
Ⅰ.神の家族 (18) 
私たちはそもそも孤独な存在です。しかし日頃は家族、親族、友人、知人などとの交わりによって寂しさから守られ、楽しく過ごしています。でもその関係はいつも良好であるとは限りません。こじれるときもあれば、破綻してしまう時もあります。順境な時は良いのですが、逆境になりますと人生の悲哀を感じてしまいます。それはある年齢層に限ったことではなく、すべての人が経験する現象なのです。
 イエスは「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われました。何という力強い慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。イエスは決して気休めで話されたのでありません。その背後にはイエスの十字架、復活、聖霊降臨の事実が存在していることを私たちは忘れてはなりません。私たちは神の家族の一員とされているのです。
Ⅱ.聖霊の降臨 (18~20)
イエスは昇天に際して「あなたがたのところに帰ってくる」(18)と約束されました。これは聖霊の降臨を意味しています。聖霊はキリストの霊です。「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう」(19)とは、キリストの昇天を意味しています。「しかし、あなたがたは、わたしを見る」(19)とは、キリストの霊としての御霊を私たちが受けることを意味しています。そのことを通して、キリストは聖霊としてこの世に存在され、私たちもまた信仰によって聖霊を心に迎えて、神と共に生きる者とされるのです。「その日」には時空を越えた素晴らしい神のみわざが実現するのです。それは「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(20)とあるように、父・子・聖霊(三位一体)なる神が私たちと一緒に居て下さるのです。

Ⅲ.神の愛という絆 (21~24)

 家族にはそれを堅く結ぶ絆が必要です。それは規律(いましめ)であって、それは「神を愛し、隣人を愛すること」に要約されます。イエスは「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(21)、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」(23)と言われました。神の家族の最大の絆は「神の愛」に尽きます。具体的には(神に愛され、神を愛し、人を愛し、人に愛される)ことになるのです。
 
 今や私たちは「孤族の国」に生きています。教会にはそうした時代に対応する責任があります。教会こそが孤独な人々の真の居場所であることを確信し、多くの人々が教会において真の生きる意味を見いだされることを願ってやみません。