聖 書:ヨハネ15:16~17

(16) あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。(17) これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

 中国は隋(598年)の時代から清(1905年)の時代に至る約1300年にわたって(科挙)と呼ばれる官吏試験制度が敷かれていました。これは非常に厳しいもので、学校試(県試・府試・院試・歳試)、科試、郷試、科挙試(挙人履試・会試・会試履試・殿試)という段階がありました。学校試は国立学校に入る試験で彼らは童生と呼ばれ、科試に合格すると挙士と呼ばれ、郷試に合格すると挙人、会試に合格すると貢士と呼ばれ、最後の殿試に合格すると進士と呼ばれ、エリート官吏の道へ進む事になります。
いずれの場合でも(選ばれる)と言うことは、嬉しいことであり、名誉なことですが、その代償として払う苦労は並大抵なものではありません。聖書は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」と教えています。
Ⅰ.神の主権による選び
 人に選ばれることも喜びですが、神に選ばれるということは、もっと素晴らしい喜びであり、名誉であり、誇りでもあると思います。その選出の基準は何であるのかを考えますと、「この世の愚かな者、弱い者、身分の低い者、軽んじられている者、無きに等しい者をあえて選ばれたのである」(Ⅰコリント1:27-28)というパウロの言葉を思い出します。こうした選出は神が誰かと相談され、協議して決められたことではなく、神ご自身がその全知全能を行使された〈神の主権〉によるものであることを知らされるのです。それは実に〈厳粛な選び〉でもあるのです。
Ⅱ.宣教のための選び
 神に〈選ばれた〉と言うだけで大きな喜びでありますから、これ以上神に要求するものは何もありません。ところが神は、「あなたがたを立てた」と言われます。新共同訳、新改訳は「任命した」と訳しています。何に任命されたのかと言いますと「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るため」であると記されています。これは〈宣教のために任命された〉と言うことです。すべてのキリスト者はキリストの証人です。キリストの弟子たちは、キリストが復活された直後から〈キリストの十字架の証人、復活の証人〉として世界に派遣されて行ったのです。神の選びの目的は実にここにありました。
Ⅲ.祈るための選び 
聖書は「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」と教えています。これは〈神に祈るために選ばれた〉ことを意味しています。神に選ばれた者が〈イエスの名〉によって祈るならば、父なる神は何でも聞いて、与えて下さると約束されているのです。これほどありがたい約束はありません。これは選ばれた者の大きな、素晴らしい特権です。特権は行使しなくては自分のものにはなりません。
Ⅳ.互いに愛し合うための選び
 イエスは「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」と言われました。神は選ばれた者を集めて教会とされました。教会員が互いに愛し合うことは当然のことですが、この素晴らしい神の豊かな愛を、まだ救われていない人々に対して表して行くためにも、神は私たちを選んで下さったのです。今、福音宣教のために求められているのは実にこの点ではないでしょうか。 
私たちは神の選びの特権に与った者です。何のために選ばれたのかと言うことが、ぼやけてきますと、力強い信仰生活を送ることができません。しっかりとその選びの意味を心にとめさせて頂きましょう。