聖 書:ヨハネ16:1~15

(1)わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。(2) 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。(3) 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。(4) わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。(5) けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。(6) かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。(7) しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。(8) それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。(9) 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。(10) 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。(11) さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。(12) わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。(13) けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(14) 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。(15) 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

キリスト教は一神教であると共に、三位一体教であると言えます。〈三位一体〉という言葉は聖書の中にはありませんが、その真理は聖書の随所に記されています。この教えは初代教会から論争の的でした。アリオスは〈キリストと神の同類性・homoiousios〉、アタナシオスは〈キリストと神の同質性・homoousios〉を主張しました。ニカヤ会議(325年)においてアタナシオスの主張が正統と認められ、アリオスは退けられました。アタナシオス信条には「我らは唯一の神を三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分離することなく」と記されています。私たちは「父・子・聖霊」の三位一体の神によって、聖書の示す神の豊かさをより明確に知ることができるのです。真理の御霊の働きについて考えます。
Ⅰ.御霊は私たちを助け、キリストを証する。(1~7)
 イエスは〈最後の晩餐〉の頃から、御自分がこの世を去ることを弟子たちに語ってこられました。しかし弟子たちはその真意を理解することができなかったのです。そうした状況の中でイエスは「わたしが去って行くことは、あなたがたに益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(7)と言われました。「助け主」(パラクレ-トス)とは御霊の別名であり〈慰め主・弁護者〉とも訳されます。聖霊は天地創造の初めから存在しておられましたが、聖霊降臨日に下られたお方は、特別な働きを持つお方でした。「父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(15:26)とあるように、キリストを証することが大きな働きでありました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(Ⅰコリント12:3)とある通りです。

Ⅱ.御霊は世の人の目を開く。(8~11)

 〈罪〉とは〈法律上の罪〉ではなく、〈不信仰と偶像崇拝〉のことです。新共同訳は「世の誤りを明らかにする」と訳しています。〈義〉とは比較対照してのことではなく、〈神の絶対的な義〉を意味しています。〈さばき〉とは量刑ではなく、人間の不義に対する厳しい審判であり、サタンに対する絶対的な審判です。真理の御霊は「罪と義とさばき」についての人間の誤った認識を明らかにして下さるのです。イエスは聖であられたにも関わらず、自ら罪人として十字架に架かかり、すべての人が義とされるために復活され、そしてサタンに対する永遠の勝利を獲得して下さったのです。
Ⅲ.御霊は私たちを真理に導く。(12~15)
 成熟した人格とは〈真偽・正邪の判断を下すことができる人間性〉と表現することができます。しかしその領域に到達することは到底不可能なことです。聖書は「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(13)と教えています。御霊は決してその真理を自ら語るのではなく、「その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせる」(13)のです。イエスは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)、「父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである」(15)と言われました。「御霊はわたしに栄光を得させる」(14)お方なのです。
 イエスは昇天されましたが、その後、真理の御霊としてお降りになりました。御霊は〈助け主・慰め主〉なるお方です。地上におけるイエスには活動範囲において制限がありましたが、聖霊はイエス・キリストと共にいつもご臨在下さるのです。