聖 書:ヨハネ16:16~24

(16) しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。(17) そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。(18) 彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。(19) イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。(20) よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。(21) 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。(22) このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。(23) その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。(24) 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。

 ベートーベン作曲交響曲第9番「歓喜」は、世界中の人々によって愛され、歌われています。わが国では年末の風物詩ともなっています。ベルリンの壁が崩壊した後チェコで革命がおき、1989年12月14日首都プラハで革命の勝利を祝う際にこの歓喜の歌が東欧革命のテーマ曲となりました。新聖歌22(聖歌85)にも収められています。
 聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と教えています。「喜び」は「祈りと感謝」と共に神が私たちに求めておられる三大要求であると言えます。
16章は「真理の御霊」の働きについて教えていますが、本日はその②として「満ちあふれる喜び」について主のメッセージを伺うことに致しましょう。
Ⅰ.喜びを得るために払う代償 (16~21) 
イエスはこの世を去られるに際して、「しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」(16)と言われましたが、弟子たちはその意味が分からず、互いに論じ合っていました。そこでイエスは「あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変わる」(20)と説明されました。さらに弟子たちの理解を助けるために、女子の出産の例を用いて〈悲しみが喜びに、憂いが喜びに、不安が喜びに、苦しみが喜びに〉変わることを話されました。それは丁度、イエスが天に行くことは悲しいことだが、聖霊がこの世に来られることは喜ばしいことであることを意味していました。イエスは「わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びで満たされるであろう」(22)と言われましたが、それは聖霊がキリストの霊として来られることであって、イエスがいつも共におられることを意味していたのです。
Ⅱ.取り去られることのない喜び (22) 
「喜び」を分析すれば、自然の喜び(出産、通過儀礼、健康、物質の充足・・)、道徳的な喜び(平和、安息、円満・・)、霊的な喜び(信仰、希望、愛情、忍耐・・)などがあげられます。しかし問題はこれらの喜びがいつまで続くのか、ということです。多くの場合、私たちの喜びは一時であって誰もその永続性を保証することはできません。そうした中でイエスが「その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」(22)と言われていることは、キリストの与える喜びが、決して一時しのぎのものではなく、未来永劫に続くところの喜びであることを意味しているのです。それは自然な喜び、道徳的な喜びも有り難いことですが、それにも増して霊的な喜び、永遠性を帯びた喜びであって、世の中の動き(病気、事故、災難・・)に左右されることのない喜びであるところに特異性があるのです。
Ⅲ.祈りによって与えられる喜び (23~24)
 「真理の御霊」の最大の恵みは、私たちとキリストとの合一です。それによって私たちは「わたしの名」によって、自由に父なる神に祈ることができるようになりました。「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれる」(24)とある通りです。私たちの日常生活において最も喜ばしいことは、愛する者と起居を共にし、互いに心が通い合うことではないでしょうか。人間は霊的な存在ですから神との交わりが日々なされることの中に最大の喜びを感じることができるのです。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)。
パウロは「患難をも喜んでいる」(ロマ5:3)と言っていますが、それは「神の栄光にあずかる希望」(同5:2)があるからです。それはどのような困難にも勝つことができる大きな力となるのです。日々に神に祈り、大きな霊的喜びに満たされましょう。