聖 書:ヨハネ16:25~33

(25) わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。(26) その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。(27) 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。(28) わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。(29) 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。(30) あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。(31) イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。(32) 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。(33) これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

 
 第93回全国高校野球選手権大会において西東京代表の日大三校が光星高校を破って優勝し、各県大会を勝ち抜いてきた49校(全国参加校4014)の頂点に立ちました。トーナメント方式ですからチャンスは1回のみであって、1回負ければそれでおしまいなのです。ですから勝負は真剣そのものです。彼らのプレーを見ていますと、最後まで諦めない、という勝負に対する執念が伝わってきます。今大会においても逆転劇が多く見られました。その辺りに高校野球の魅力があるのでしょう。
 本日の箇所は「最後の晩餐」におけるイエスの最後の言葉であると言えます。
Ⅰ.勝利の基盤 (25~28)
 イエスはこの段階にきて比喩ではなく「あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(25)と言われました。具体的には「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行く」(28)ことを意味していました。その背後にはキリストの降誕、生涯、十字架、復活、昇天、聖霊降臨・・という父なる神の主導による一連のみわざが存在していたのです。それによって私たちは父なる神が私たちを愛して下さっていることを知り、私たちがイエスを愛し、信じるに至ることができたのです。私たちは今現在、憚ることなく父なる神に祈り、交わるという尊い身分と特権に与っています。ここに勝利の基盤があります。
Ⅱ.勝利の秘訣 (29~32)
 弟子たちは「わたしたちはあなたが神からこられたかたであることを信じます」
(30)と告白しています。こうした弟子たちの告白に対してイエスは、「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている」(32)と看破しておられます。実際、このあと弟子たちはイエスを裏切ってしまうことになるのです。イエスを裏切ったのはイスカリオテのユダだけではなく、ペテロもヨハネもヤコブも同様であったことの中に、人間がいかに弱い存在であるかを悟ることができます。しかしイエスは「わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」(32)という確信を持っておられました。「主が一緒におられる」、ここに私たちの勝利の秘訣があります。
Ⅲ.勝利の現実 (33)
 人生には「生病老死」という四大苦が存在しています。イエスも「あなたがたは、この世ではなやみがある」と言われました。ですから苦しみから逃れようとする生き方では真の平安を得ることはできません。イエスは「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである」といわれました。それはこの世の知恵や努力によって得るものではなく、十字架と復活を通してサタンに打ち勝たれたイエスを信じることによって得るものなのです。イエスは「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と宣言されました。私たちは日々様々な悩みに翻弄されています。しかしイエスを信じることによって、私たちの人生がこの世限りのものではなく、神と直結した人生に変えられるのです。キリスト者はどのような戦いの最中にあっても勝利することができるのです。ここに勝利の現実があります。
 「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(Ⅰコリント10:13)。
私たちの人生には様々な試練や苦難がつきまといます。しかしいたずらに恐れおののくのではなく「わたしはすでに世に勝っている」と言われるイエスを信じ、イエスと共に歩むとき、私たちは心安らかな日々を過ごすことができるのです。