聖 書: エペソ5章1節~7節

(1) こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
(2) また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
(3) また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
(4) また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
(5) あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
(6) あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
(7) だから、彼らの仲間になってはいけない。

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授による政治哲学講義、「Justice:正義・公正」が2010年NHKで放映されました。教授の講義は例題や実例を提示しつつ、学生に難問を投げかけ、議論を引き出し、自身の理論を展開する方式です(ウィキペディアから引用)。この世の人々も正義を求めていますが、私達にとって正義や倫理は何でしょうか。イエス様はマタイ5章20節で「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」とおっしゃいました。それでは私達の義はパリサイ人、律法学者より優れているのでしょうか。今日はエペソ書5章から基督教倫理に関して考えましょう。
1.神にならう者になりなさい(1~2節)
キリスト教の倫理は人間の中からではなくて、神の愛から出てきます。神からの愛がキリスト教倫理の基礎であり、それを人々に現すのがキリスト教倫理の目標です。神の愛は既に、完全なものとして私達に現れましたので、私達は新たな、もっと大きな愛を探し求めるのではなく、既に十字架を通して見せて下さった愛が私には具体的にどんなものであるかを捜し求めなければなりません。私への愛が具体的に見えるとき、私達は反応としてきよめを求める事が出来ます。
2.不品行など口にすることさえしてはならない(3~5節)
不品行、汚れ、貪欲は性的な罪を描写する単語です。不品行には偶像崇拝の意味もあります。ところで、一つの疑問があります。聖書ではなぜ、姦淫と偶像崇拝が同じ単語、同じ意味で使っているのか。5節をみると明確です。「すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者」。二つは互いに種類が違うものなのに、どうして同じ単語、同じ意味でしょうか。偶像崇拝と姦淫の共通点は二人が関係を結ぶことで一つになることです。私達は 不品行、汚れ、貪欲、卑しい、愚かな話、みだらな冗談ではなくて感謝のことばを使いましょう。
3.不誠実な言葉でだまされてはいけない(6節)
私達は二つのことにだまされやすいです。一つは周辺の人々の偽りの言葉にだまされています。もう一つ騙されやすいことは私の心から聞こえてくる偽りのささやきです。これらの事に騙されて義を捨ててはいけません。
4.仲間になってはいけない(7節)
人間は弱いもので善を行うことも一人では勇気がなくて、躊躇します。反対に人間は弱いもので悪いことも一人では出来なくて、仲間を集めます。私達が神のみことばを恐れない人々と仲間になると彼らの価値観、彼らの世界観に従うことになります。彼らと同じ価値観で暮らしますと彼らと同じ報いを受けます。私達は未信者と一緒に過ごす時間が多いですが、しかし私達はこの世の価値観ではなく、聖なる生活を営みましょう。
未信者の方が私達より優れた倫理感覚を持っていると、大きなチャレンジ、良き刺激になる時があります。しかし、あくまでも未信者の倫理基準は彼ら自身です。人間による義です。状況によって、生きるためなら、いつでも変えられる人間的な義です。信仰者の倫理基準は神の義です。